2000年。前作が「泣きゲー」の型を作り、本作はその型を「救えなくても泣ける」地点まで押し広げた。あの夏の海辺の到達点は、26年経った今もまるで削れておらん。
2000年9月、Keyの第二作。前作KANONが泣きゲーの方法論を確立した直後に出た、Key三部作の中核じゃ。現代の海辺町に流れ着いた人形使い・国崎往人が、空にいる「翼を持った少女」を探す旅の途中で病弱な少女・神尾観鈴と出会う。三部構成で千年の時間スケールを持つ破格の野心作じゃった。26年ぶりに再びディスクを回した。残ったもの、削れたもの、その両方を。前作KANONからの飛躍と、後のCLANNADへの系譜も併せて見ていくとしよう。
スコア詳細
2000年、夏の海辺で泣かされた話——前作KANONの余韻のまま身構えて買った
まずは「鳥の詩」が鳴る、あの夏の海辺の入口から。
2000年9月、Keyの第二作として出た恋愛アドベンチャーじゃ。プレイしたのはPC版。前年のKANONが「泣きゲー」という遊び方の方法論を確立した直後で、その続きを業界全体が固唾を呑んで待っておった頃じゃな。わしも前作の余韻が抜けきらぬまま、次は何を見せるのかと身構えて店頭に向かった口じゃ。麻枝准・久弥直樹を中心とする座組も前作を引き継いでおって、期待値は当時としては異例の高さじゃった。
物語は、旅の人形使い・国崎往人が南の海辺町に流れ着くところから始まる。母から「空には翼を持った少女がいる」と聞かされ、その少女を探して旅を続けておる青年じゃ。町で出会うのは、バス停で変な笑い方をする女子高生・神尾観鈴。彼女に連れられて居候することになった神尾家には、酒癖の悪い豪快な養母・晴子もおる。商店街で出会う元気な少女・霧島佳乃、駅前で人形と話す物静かな少女・遠野美凪——関わるごとに、それぞれの背中に小さな影が見えてくる。潮の匂いと蝉の声の中で、空を見上げる少女たちの物語が、ゆっくりと結ばれていく。
本作は三部構成という独特の形を取る。最初の現代パートに加え、千年前を舞台にした第二部、そして全てを収束させる最終部がある。当時の恋愛ADVとしては破格に大きな時間スケールを持っておった。シナリオは麻枝准を中心に、前作KANONからの座組が引き継がれておる。本作はKANON(1999)、本作(2000)、CLANNAD(2004)と続くKey三部作の二作目にあたる。後の10年のKeyの黄金期の、ちょうど真ん中の起点に置かれた作品じゃ。
当時の評価は2000年のセールス・各誌の年間部門制覇を見れば一目瞭然じゃが、わしが言いたいのは数字ではない。本作は前作の続きとして期待されながら、前作が選ばなかった種類の結末を正面から選んだ。当時、これで賛否が割れた。「期待していたものと違う」という声があり、同時に「これこそ血の通った物語じゃ」という声があった。わしは後者の側におった。なお当時から「ゲーム内の情報だけでは真相を読み解きにくい」という難解さも指摘されておった。それも含めて値踏みするとしよう。
【当時の記憶】2000年、泣きゲーが「救い」の定義を書き換えた
まず2000年当時の業界の感触からじゃ。
前作KANONの方法論は「ヒロインの秘密→悲劇→奇跡」じゃった。悲劇は起きるが、最後に奇跡が起きてヒロインは救われる。これが当時の泣きゲーの基本の型じゃった。プレイヤーは安心して泣ける。最後には救いがあると分かっておるからじゃ。
そこへ本作が出た。何が衝撃だったか。本作は「救い」というものの定義を、前作とは別の場所に置いた。前作が「生存という奇跡」を救いとしたのに対し、本作の救いは別の次元にある。何が救いなのかは結末に関わるためここでは伏せるが、当時のプレイヤーが慣れ親しんだ「最後は奇跡で助かる」という安心の型を、本作は意図的に裏切った。悲劇を悲劇のまま終わらせず、しかし生存の奇跡で誤魔化しもしない、第三の道を選んだ。これが2000年の衝撃じゃった。泣きゲーというジャンルの「救い」の幅を、本作は一気に広げた。前例は当時ほとんどなかった。
もう一つ書いておく。物語の語り口の大胆さじゃ。本作は三部構成の中で、語り手や時代を切り替えていく。現代の話だと思って読んでいると、千年前の物語が立ち上がり、それが現代と思いがけない形で繋がる。当時、この構成の大きさに面食らったプレイヤーは多かった。「序盤は謎しかない」という感想が当時の掲示板に溢れておったのを覚えておる。一周しただけでは全容が掴めない。じゃがその謎が、二周目で繋がっていく。この構成の野心が、本作を「ただの難病もの」から引き離しておった。
観鈴という少女の造形も、当時のヒロイン像から外れておった。「にはは」と笑い、困ると「がお」と恐竜の鳴き真似をする。学校で友達ができず、それでも「観鈴ちん、ふぁいとっ」と自分を励ます。一見すると幼く頼りない少女じゃが、その幼さには本作固有の意味がある。意味の話は結末に関わるため伏せるが、観鈴の「無垢さ」は単なる属性ではなく、作品のテーマそのものに直結しておる。当時のわしは、そこに気づいた時に背筋が伸びた。
26年後に再プレイして——残ったもの、削れたもの
26年ぶりに通しでやり直した感触はこうじゃ。
……残っておった。本作のクライマックス、観鈴と養母・晴子が辿り着く到達点の場面じゃ。具体的に何が起きるかはネタバレあり版に譲るが、500年生きておると、こういう場面が時間を越えて来るのは珍しい。じゃが来た。観鈴がある一言を口にする、あの場面じゃ。わしはまた動かされた。あの一言が効くのは、観鈴の日常の積み上げが全部そこに繋がってくるからじゃ。学校で友達ができぬ孤独、養母・晴子への愛、毎日を「がんばる」少女の健気さ。それらが最後の一点に収束する設計になっておる。26年経って削れておらん。本物はこういうものじゃな。
晴子の造形も再プレイで改めて巧いと感じた。「うちは晴子いうねん」と名乗る酒飲みの豪傑じゃが、その豪快さの裏に観鈴への深い愛がある。「家族って、すごいなぁ」「このうえない幸せと、このうえない辛さ…すべてがそこにある」という晴子の述懐は、本作のテーマである「家族」を一言に圧縮しておる。血の繋がりを超えた母娘の物語として、晴子の存在が本作の感動を支えておる。
千年前を舞台にした第二部も、再プレイで本作の背骨だと再確認した。詳細は伏せるが、この第二部があるからこそ、現代パートの少女たちの哀しみに「千年の重み」が宿る。評判の中に「悲劇に必然性がない」という批判があるのは知っておるが、わしの読みでは必然性は第二部に全部置いてある。難解さゆえにその接続を読み取れぬプレイヤーがおる、という構造上の問題はあるが、必然性そのものは確かに存在しておる。この第二部の骨太さが、本作の感動が薄っぺらくならない理由じゃ。
逆に削れたものもある。一つはHシーンの配置じゃ。本作はHシーンを持つ18禁原作じゃが、配置がテーマと噛み合わない場面がある。テキストとして読めば、心理描写の比重が高く文章力は当時の水準を満たしておるが、本作が積み上げる「無垢さ」というテーマと、性描写がどうしても噛み合わない箇所が残る。当時の業界事情——18禁作品である以上はHシーンを入れねばならぬという制約——の中で挿入されておるのは理解できるが、構造としては惜しい。これは前作KANONから引き継がれた弱点で、本作でも解消されておらん。
もう一つは、現代パートの三ルートの強度差じゃ。本作は明確に観鈴を中心に据えた作品で、他二人のルートは前座の色が強い。三ルートが同じテーマの変奏として統一されておる設計の巧さはあるが、観鈴以外を目当てにプレイする者は満足度が下がるじゃろう。これも設計の意図ではあるが、弱点は弱点として記しておこう。
時間の審判——「難解さ」は欠点か、それとも強度か
時を経ても有効か。中間的な判決を下すとしよう。
本作には26年間ずっと付きまとう論点がある。「ゲーム内の情報だけでは真相を読み解きにくい」という難解さじゃ。本作は物語の根幹の因果を明示的に説明せず、プレイヤーに断片を繋がせる。この「説明不足」を欠陥と取る者と、「語り継がれる深さ」と取る者で、評価が割れ続けておる。考察ブログが25年書かれ続けておるのも、この難解さゆえじゃ。
わしの判決はこうじゃ。これは半分欠点で、半分強度じゃ。
まず欠点の側からじゃ。物語の根幹の因果を推測に委ねるのは、設計として不親切な部分が確かにある。当時のわしも一周目では繋ぎきれなかった。本作を「難解で投げ出した」というプレイヤーが一定数おるのは事実で、その層を取りこぼした責任は作品の側にある。これは甘さじゃ。今の目で見ると、もう少し情報を置いてよかった。
じゃが強度の側も書かねば不公平じゃ。本作の難解さの相当部分は「情緒で先に届かせて、論理は後から追いつかせる」という麻枝准の方法論から来ておる。クライマックスで、プレイヤーは「なぜ」を完全には理解しておらん。じゃが泣ける。情緒が論理を追い越して届く。そして二周目に読み返すと、論理が後から追いついて「ああ、そういうことか」となる。この二段構えは、26年経って振り返れば、欠点というより本作固有の体験設計じゃった。一周で全てが分かる作品なら、考察が25年も続くことはない。難解さが、結果として作品の寿命を延ばした。これは時間の審判による評価の修正点じゃ。
もう一つ時間に試された論点がある。「ヒロインの精神年齢が幼い」という批判じゃ。観鈴の「にはは」「がお」をはじめ、本作の少女たちの幼さが「不自然だ」と感じる声は当時からあり、今も根強い。わしの読みでは、これは意図的な設計じゃ。幼さ、無垢さは本作のテーマに直結しておる。じゃが、それが全プレイヤーに伝わる書き方になっておらん、という点は認める。設計の意図と表現の伝達に隙間が残っておる。これは時間が経っても埋まらなかった隙間じゃ。
業界史の中で——KANONを先鋭化し、CLANNADの土台を作った
本作が業界に残したもの、じゃ。
本作はKey三部作の二作目じゃ。1999年のKANON、2000年の本作、2004年のCLANNAD——この三本がKeyの黄金期を作った。本作が前後の作品とどう繋がっておるかを、実際の記憶から辿ってみよう。
まずKANONからの飛躍じゃ。前作の中で最も尖っておった部分——「消えていく相手を最後まで見送る」という感情の作り方——を、本作は作品全体の主軸に格上げした。前作ではそれが一つのルートの中の見せ場じゃったが、本作はそれをメインヒロインで、しかも逃げ場なしで再演した。前作が掴んだ最も鋭い感触を、本作は作品の中心に据えた。これが飛躍じゃ。前作に8.0を付けたわしから見れば、本作はそこから一段、確かに高いところへ登っておる。
次にCLANNADへの継承じゃ。本作の中心テーマは「家族」じゃ。血の繋がらない母娘が選び取る絆、世代を超えて受け継がれていくもの、失った家族をどう取り戻すか——本作は「家族をどう作るか、どう失うか、どう取り戻すか」を様々な角度から書いた。この「家族」というテーマが、2004年のCLANNADで全面展開する。CLANNADは「家族を作っていく物語」として書かれるが、その主題の出発点は本作にある。前作KANONが「奇跡」を、本作が「家族」を、それぞれKeyの核心テーマとして据えた。CLANNADは本作の「家族」を受け継いで完成させた作品じゃ。
そして「生まれ変わり・輪廻」という構造じゃ。本作が確立した、過去の魂が現代に受け継がれ、その哀しみが現代の人物に宿るという構造は、後の麻枝作品が繰り返し使う型になった。本作はその原型を最初に提示した作品として、業界史に確かな足跡を残しておる。
業界全体の中での位置付けも書いておく。「泣きゲー」というジャンル名が業界用語として完全に定着したのは、本作の頃じゃ。前作KANONがジャンルの方法論を作り、本作がそれを「救えなくても泣ける」という地点まで押し広げた。この二本で「泣きゲー」というジャンルの幅が確定した。一作品がジャンルの幅を広げるというのは、長く生きていてもそう何度も見るものではない。
冒頭の詩が告げていたもの主題歌のことも書いておく。本作のオープニングで流れる「鳥の詩」じゃ。冒頭の詩はこう始まる。「消える飛行機雲 僕たちは見送った」。そして「あの鳥は まだ うまく飛べないけど いつかは 風を切って知る」と続く。当時のわしは、これをただ夏の少年少女の歌として聞いておった。じゃが本編を通すと、この「鳥」「飛ぶ」「届かない場所」「夏の線路」という詩語が、本作の物語そのものを先に告げておったと分かる。何がどう繋がるかは結末に関わるため伏せるが、空を見上げる少女たちと、空にいる翼を持った少女を探す旅——本作の主題は、開幕の一曲にすべて畳み込まれておった。発売当時にこの詩を聞いて、そのまま物語に入っていった時の感触を、わしは今も覚えておる。
反響のことも史的に記しておく。この「鳥の詩」は、歌い手Liaの実質的なデビュー曲じゃった。当時、エロゲーの主題歌をわざわざ海の向こうで録ったというのは、業界の外から見れば奇妙な話に映ったじゃろう。じゃがこの一曲は、ゲームの枠を越えて広がっていった。後のテレビアニメ版・劇場版でも使われ、コンシューマ移植のたびに鳴り続け、いつしかエロゲーやアニメ音楽を代表する一曲として知られるようになった。エロゲーの中で鳴っていた曲が、外の世界に持ち出されて記憶される——その最初の大きな一例が、この曲じゃった。本作が業界史に残したものは物語だけではない。一つの曲が業界の壁を越えていく道筋を、本作が先に通しておった。これも歴史じゃ。
9.0——時を超えた。ただし完璧ではない
最後に判決を下すとしよう。
クライマックスの到達点は残った。晴子の母娘愛も残った。千年前を描いた第二部の骨太さも、本作のテーマの圧縮も、26年経って削れておらん。これらは時間に削られなかった部分じゃ。本物はこういうものじゃな。26年経って読み返して、わしはまた動かされた。500年生きておると、これが来るのは珍しい。
削れた部分もある。根幹の情報不足、Hシーンの居心地の悪さ、現代パートの三ルートの強度差、ヒロインの無垢さが伝わりきらない隙間。これらは時代の制約と、本作の野心が大きすぎたがゆえの綻びじゃ。本作の弱点は「足りなかった」というより「届かせきれなかった」というものじゃ。それだけ高いところを狙っておった証拠でもある。
業界史の中での位置付けは動かない。Key三部作の中核、前作KANONの最も尖った感情を作品全体に格上げした一本、後のCLANNADの「家族」テーマと麻枝准の「輪廻」モチーフの源流。少なくとも次の50年は確実に残る。考察が25年書かれ続け、移植が繰り返され、新規プレイヤーが今も流入し続けておる——時間がこの作品を選び続けておる、という事実が、何よりの審判じゃ。
それが9.0の意味じゃ。10に届かなかった理由は、根幹の情報を推測に委ねた設計の甘さと、Hシーンの構造的な居心地の悪さによる。完璧に届けきれていたら10じゃった。じゃが届かせきれなかった部分があるからこそ、9.0じゃ。本作のクライマックスの到達点だけで言えば、これはKey三部作の中でも別格の一点じゃ。歴史を作り、時を超えた作品にふさわしい数字じゃと、わしは判決を下すとしよう。
詳細な話——観鈴の病の正体、三部構成の真相、各ルートの結末、Keyの後の作品群への具体的な継承関係——はネタバレあり版に書いた。興味があればそちらを読んでくれ。
