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マルチナ・カーンスタインのレビュー(ネタバレあり) — AIR

マルチナ・カーンスタイン
マルチナ・カーンスタイン
500年生きた吸血鬼
9.0/10
9.0 / 10

「もうゴール、していいよね」——26年経って、わしはこの一言の前でまた動かされた。本物はこういうものじゃ。

ネタバレなし版で書いた「衝撃」と「KANONからの飛躍」を、ここでは中身に踏み込んでいくぞ。神尾観鈴は千年前の翼人・神奈備命の魂を継ぐ最後の輪廻じゃった。往人は法術を使い果たした代償でカラスのそらに転生し、観鈴の最後の夏を見守る。八月十四日、観鈴は晴子の腕の中で自らの足でゴールに辿り着いて世を去る。SUMMER編の神奈と柳也、裏葉の千年計画、佳乃と美凪の救済。前作KANONの真琴ルートをどう先鋭化させたか、後のCLANNADが何を学んだか。当時の業界の目と、26年後の再審判の目、その両方からじゃ。

スコア詳細

歴史的意義 10
作品の尖り・唯一無二性 9
テーマ・メッセージ性 9
世界の奥行き 9
感動・カタルシス 9
エンディングの満足度 8

2000年、夏の海辺で泣かされた話——前作KANONの余韻のまま身構えて買った

まずは三部構成という、当時としては破格の器の話からじゃ。

2000年9月、Keyの第二作として出た恋愛アドベンチャーじゃ。プレイしたのはPC版。前年のKANONが「泣きゲー」という遊び方の方法論を確立した直後で、その続きを業界全体が固唾を呑んで待っておった頃じゃな。わしも前作の余韻が抜けきらぬまま、次は何を見せるのかと身構えて店頭に向かった口じゃ。麻枝准・久弥直樹を中心とする座組も前作を引き継いでおって、期待値は当時としては異例の高さじゃった。

本作はDREAM編SUMMER編AIR編という三部構成を取る。現代の海辺町に流れ着いた人形使い・国崎往人が、空の彼方にいる「翼を持った少女」を探す旅の途中で神尾観鈴と出会う。これがDREAM編じゃ。そこに千年前の翼人の物語(SUMMER編)が重なり、AIR編で全ての連なりが収束する——という、当時の恋愛ADVとしては破格に大きな時間スケールを持つ作品じゃった。

当時の評価は2000年のセールス・各誌の年間部門制覇を見れば一目瞭然じゃが、わしが言いたいのは数字ではない。本作は前作の続きとして期待されながら、前作が選ばなかった結末——「メインヒロインを救えない」結末——を正面から選んだ。当時、これで賛否が割れた。「ハッピーエンドを期待しておったのに鬱になった」という声があり、同時に「これこそ血の通った物語じゃ」という声があった。わしは後者の側におった。詳しい話は以下のとおりじゃ。なお当時から「ゲーム内の情報だけでは真相を究明しきれない」という難解さも指摘されておったが、それも含めて値踏みするとしよう。

【当時の記憶】2000年、「救えない結末」を泣きゲーが選んだ衝撃

まず2000年当時の業界の感触からじゃ。

前作KANONの方法論は「ヒロインの秘密→悲劇→奇跡」じゃった。悲劇は起きるが、最後に奇跡が起きてヒロインは救われる。これが当時の泣きゲーの基本の型じゃった。プレイヤーは安心して泣ける。最後には救いがあると分かっておるからじゃ。

そこへAIRが出た。何が衝撃だったか。本作のメインヒロイン観鈴は、千年前の翼人・神奈備命の魂を継ぐ最後の輪廻じゃった。「人の身に翼人の魂を宿すのは、小さな器に海の水を移すよう」と裏葉が語る通り、神奈の千年の悲しみが観鈴の体を内側から壊していく。観鈴の見る夢は最初は空の夢で、それがだんだん昔へ遡る——神奈の記憶を遡行しておるのじゃな。そして本作は、この観鈴を救わない。AIR編の八月十四日、観鈴は晴子の腕の中で世を去る。

「もうゴール、していいよね」「ずっと目指してきたゴール」「ゴールは…幸せといっしょだったから」「ひとりきりじゃなかったから…」——観鈴が自らの足で晴子のもとへ歩き、辿り着いて力尽きる場面じゃ。前作なら、ここで奇跡が起きておった。本作では奇跡は起きない。代わりに、観鈴自身が「死」を「ゴール」と呼び替えて、自分の足でそこへ歩いていく。救済を「生存」ではなく「家族との和解の完成」に置き換えた。これが2000年の衝撃じゃった。泣きゲーが「救えない結末」を、しかも「それでも救いである」という形で書いた。前例は当時ほとんどなかった。

もう一つ書いておく。視点の転換じゃ。AIR編に入ると、語り手が往人からカラスのそらに変わる。往人は観鈴ルートの終盤で法術の最後の力を観鈴の心に注ぎ、その代償で人の姿を失い、カラスに転生しておった。だから観鈴の最後の夏を、人間の言葉を持たぬカラスとして、ただそばで見ておることしかできない。「俺はここにいるからっ!」と叫んでも、観鈴には届かない。この「見ているしかできない視点」を最終章に据えた構造は、当時としては大胆じゃった。主人公が無力な傍観者になる泣きゲーなど、当時のわしは見たことがなかった。

【再プレイして】観鈴のゴールは26年生き延びておった

26年ぶりに通しでやった。AIR編からじゃ。

……来た。今回も来たわい。八月十四日、晴子と二人で外に出た観鈴が、最後のジュースを飲み、自分の足で晴子に向かって歩く場面じゃ。「後、三歩」「そこまで辿り着いたら、もうゴールしていいよね」。晴子は「観鈴っ、こっちや、ここまでや」と手招きしながら、その意味を悟って「観鈴…きたらあかんっ!」「これからや言うてるやろっ!」と叫ぶ。じゃが観鈴は辿り着いてしまう。「やった…」「やっと…たどりついた」「ずっと探してたばしょ…幸せなばしょ…」。そして「観鈴…観鈴っ…観鈴ーっ…!」と晴子が腕の中で叫ぶ。26年経って読み返して、また動かされた。500年生きていてこれが来るのは珍しいのう。

この場面の作りの巧さよ。「ゴール」という言葉は、観鈴の口癖や日常から自然に積み上げられておる。観鈴は学校で友達ができず、「友達になれそうになると、わたし泣き出しちゃって…」という呪いを抱えておった。神奈の千年の孤独が、観鈴の人生に「人と繋がれない」という形で現れておったのじゃな。だから観鈴にとっての「ゴール」とは、ただの死ではない。「ひとりきりじゃなかった」という状態に到達することじゃ。晴子という家族を取り戻し、孤独の呪いを解いた上での死。だから「幸せといっしょ」のゴールになる。死を悲劇のまま終わらせず、しかし生存の奇跡で誤魔化しもしない。この一点で本作は前作を超えた、とわしは再プレイで確認した。

晴子の側の設計も再プレイで改めて巧いと感じた。晴子は観鈴の養母じゃが、本当は観鈴の実母・郁子の姉妹で、観鈴の伯母にあたる。橘家から観鈴を引き取るために「十日も土下座し続けたった」過去を持つ。エピローグで晴子は「うちは、あの子の母親なんやって」「ずっと、神尾晴子の娘は、神尾観鈴だけなんや」と言い切る。血の繋がりではなく、選び取った母娘じゃ。本作のテーマである「家族」が、この一言に圧縮されておる。「家族って、すごいなぁ」「このうえない幸せと、このうえない辛さ…すべてがそこにある」——晴子のこの述懐は、26年経っても削れておらん。

そしてエンディングじゃ。観鈴を看取った晴子が、観鈴が拾ったカラスのそら——往人の魂——に向かって「あんたには、翼があるやないの」「ひとの夢とか願い…ぜんぶ、この空に返してや」と告げる。そらは翼を広げ、「飛ぼう」「僕は駆け始めた」「初めて、両の翼が風をつかんだ」と空へ飛び立つ。千年の間、空で泣き続けた神奈の魂を解き放つために。この収束は美しい。ただ、ここに本作最大の弱点もある。それは後で触れるとしよう。

【再プレイして・続】SUMMER編が本作を傑作にしておる

SUMMER編を改めて見てみよう。ここが本作の背骨じゃ。

SUMMER編は千年前の物語じゃ。翼人の末裔である神奈備命が高貴な巫女として社殿に幽閉されておった。警護役の柳也と女官の裏葉に支えられて社を脱走し、高野山に幽閉されていた母と再会するが、母は朝廷軍の矢に倒れ、翼人一族の記憶と「呪い」を神奈に遺して死ぬ。神奈は柳也と裏葉を守るため自ら空へ飛び、呪詛で空に封じられて凍りつく。これがDREAM編の千年前の真相じゃ。

再プレイで強く感じたのは、SUMMER編がなければ本作はただの難病もので終わっておった、ということじゃ。観鈴の「原因不明の病」に千年の重みを与えておるのはSUMMER編じゃ。神奈が空で泣き続ける場面、母(八百比丘尼)が「ただ…分かち合いたかった」「この子と…翼を、重ね…夏空を…」と言い遺して死ぬ場面——これらがあるから、観鈴の病が「ただの泣かせ装置」ではなく「千年の輪廻の帰結」になる。評判の中に「悲劇に必然性がない」という批判があるのは知っておるが、わしの読みでは逆じゃ。必然性はSUMMER編に全部置いてある。難解さゆえにその接続を読み取れぬプレイヤーがおる、という構造上の問題はあるが、必然性そのものは存在しておる。

そして裏葉と柳也の契りじゃ。神奈が空に封じられた後、柳也は呪いで一年と命がない。裏葉は神奈が空で永遠に泣き続ける夢を見て、「子をお作りくださいませ」と柳也に申し出る。柳也が「すべてを忘れて…幸せになっても、いいんだ」「神奈のことは、忘れていいんだ」「俺のことも、忘れて、いいんだ…」と言うと、裏葉は「いやでございます」「わたくしは、ひとりではございません」と返す。この子孫が国崎往人じゃ。千年後に「翼を持った少女」を探す旅を続ける血統の起点が、ここにある。再プレイで気づいたが、本作の登場人物は誰一人として神奈を救えない。裏葉ですら「神奈さまをお救いする術はございません」と言い切る。それでも子をなし、術を継ぎ、千年かけて救済の可能性だけを未来に託す。この「自分の代では届かないと知りながら次に託す」という構造は、500年生きておると胸に来る。届かないと知って動く者の物語じゃ。

もう一つ。柳也が敵中で死のうとした時、裏葉が両手で刀身を握って「お斬りくださいませ」「悪鬼と変じた柳也さまを見て、なぜ神奈さまがお喜びになりましょうか」と止める場面。手のひらが裂けるのも構わず刀を握る女官じゃ。SUMMER編にはこういう「言葉ではなく身体で止める」場面が要所に置かれておって、現代パートのどの場面より骨太じゃ。本作の感動が薄っぺらくならないのは、この骨太なSUMMER編が背骨を通しておるからじゃ、と再プレイで再確認した。

佳乃と美凪——「呪いを解く儀式」という共通構造

現代パートの他二ルートにも触れておこう。

佳乃ルートじゃ。佳乃は神社の御神体「輝く羽根」に触れて翼人の悲しみと共鳴し、無意識に手首を切ろうとする「もう一人」を抱えておった。姉のがそれを「魔法のお守りバンダナ」で抑えてきた。聖の「最初にあの羽根に触ったのは、あの子じゃない。私なんだ」「それなのに、なぜあの子が…あの子だけが、罰を受けなければならないのだろう」という告白が、このルートの重心じゃ。佳乃本人より、罪を背負った姉の方が深い。再プレイでもこの聖の描写は良かった。祭で佳乃に風船を渡して泣きながら走り去る場面は、姉の物語の決着として効いておる。

美凪ルートじゃ。美凪の母は妹を流産したショックで、娘の美凪を流産した妹の名「みちる」と呼んで育てた。美凪はずっと妹を演じてきた。そして駅前で美凪と遊ぶみちるは、神奈の悲しい夢のかけらが、美凪の生まれなかった妹と重なって形を取った存在じゃった。「みちるはね、その子の悲しい夢のかけらなんだよ」「星は…夜が明けたら消えないといけないものだから…」と告げて消える。「飛べない翼に意味はあるんでしょうか」という美凪の問いが、このルートの核心じゃ。

この二ルートと観鈴ルートには共通構造がある。どれも「翼人由来の呪い/哀しみを解く儀式」として設計されておる。佳乃はバンダナを外して地上に留まることを選び、美凪はみちるを手放して母と向き合うことを選び、観鈴は孤独の呪いを解いてゴールに辿り着く。三者三様じゃが、全て神奈の千年の哀しみの分け前を背負った少女たちの解放の物語じゃ。この設計の統一感は、再プレイで改めて感心した。前作KANONの5ルートが「同じ手順の反復」だったのに対し、本作の3ルートは「同じテーマの異なる変奏」になっておる。一段、構造が洗練された。

ただし正直に書けば、佳乃・美凪ルートは観鈴ルートとSUMMER編の重さに比べると軽い。本作は明確に観鈴一点突破の作品で、他二ルートは前座の色が強い。これは設計の意図でもあるが、二ルートを単体で見た時の強度はそこまで高くない。後で総合点に反映する。

【時間の審判】「難解さ」は欠点か、それとも強度か

時を経ても有効か。本作最大の論点に踏み込んで、判決を下すとしよう。

本作には26年間ずっと付きまとう批判がある。「ゲーム内の情報だけでは真相を究明しきれない」という難解さじゃ。観鈴がなぜ死なねばならぬのか、往人がどういうメカニズムでカラスに転生したのか、みちるとは正確には何なのか——これらは本編で明示的に説明されない。プレイヤーは断片を繋いで推測するしかない。この「説明不足」を欠陥と取る者と、「語り継がれる深さ」と取る者で、評価が割れ続けておる。

わしの判決はこうじゃ。これは半分欠点で、半分強度じゃ。

まず欠点の側からじゃ。AIR編で往人がカラスに転生する因果は、本編では唐突に視点が切り替わるだけで、明示的な説明がない。「法術を使い果たした代償」という読みは、断片からの推測じゃ。神奈の魂がどう観鈴に至ったか、なぜ晴子の家系がその器になったか、橘家との関係はどうなのか——これらも本編では曖昧なままじゃ。物語の根幹の因果を推測に委ねるのは、設計として不親切な部分が確かにある。当時のわしも一周目では繋ぎきれなかった。これは甘さじゃ。今の目で見ると、もう少し情報を置いてよかった。

じゃが強度の側も書かねば不公平じゃ。本作の難解さの相当部分は「情緒で先に届かせて、論理は後から追いつかせる」という麻枝准の方法論から来ておる。観鈴のゴールの場面で、プレイヤーは「なぜ」を完全には理解しておらん。じゃが泣ける。情緒が論理を追い越して届く。そして二周目、SUMMER編を踏まえて読み返すと、「ああ、そういうことか」と論理が後から追いつく。この二段構えは、26年経って振り返れば、欠点というより本作固有の体験設計じゃった。一周で全てが分かる作品なら、考察ブログが25年も書かれ続けることはない。難解さが、結果として作品の寿命を延ばした。これは時間の審判による評価の修正点じゃ。

もう一つ時間に試された論点がある。「ヒロインの精神年齢が幼い」という批判じゃ。観鈴の「にはは」「がお」、佳乃の天真爛漫、みちるの幼さ——これらが「不自然に幼い」と感じる声は当時からあり、今も根強い。わしの読みでは、これは意図的な設計じゃ。神奈の千年の哀しみを背負った器であるほど、その魂は「無垢」に保たれる必要がある。知徳が「翼人は夢を継ぐと伝えられております」「それゆえに、無垢なものなのだと」と言う通りじゃ。幼さは翼人性の表現じゃ。じゃが、それが全プレイヤーに伝わる書き方になっておらん、という点は認める。設計の意図と表現の伝達に、隙間が残っておる。これは時間が経っても埋まらなかった隙間じゃ。

【業界史の中で】KANONの真琴を先鋭化し、CLANNADの土台を作った

本作が業界史のどこに立っておるか、じゃ。

本作はKey三部作の二作目じゃ。1999年のKANON、2000年の本作、2004年のCLANNAD——この三本がKeyの黄金期を作った。本作が前後の作品とどう繋がっておるかを、実際の記憶から辿ってみよう。

まずKANONからの継承と飛躍じゃ。前作の真琴ルートで麻枝准は「消えていく相手を最後まで見送る」という構造を書いた。言葉を失っていく真琴に「結婚しようか、真琴」と告げる、あの場面じゃ。本作の観鈴のゴールは、この真琴ルートの先鋭化じゃ。前作は真琴の消失と並行して猫の生まれ変わりを示し、わずかな救いを残した。本作は観鈴の死を、生まれ変わりの救いで薄めなかった。観鈴は確かに死ぬ。代わりに「家族の和解の完成」と「神奈の魂の解放」という別の次元の救済を置いた。前作で麻枝が掴んだ「見送る感情」を、本作はメインヒロインで、しかも逃げ場なしで再演した。前作の最も尖った部分を、本作は作品全体の主軸に格上げした。これが飛躍じゃ。

視点設計の面でも飛躍がある。前作の主人公・相沢祐一は最後まで物語の主体じゃった。本作の往人は、最終章でカラスになって発話力を失う。主人公が無力な傍観者になる、という選択は前作にはなかった。「救う者」を「見ているしかできない者」に変える——この大胆な視点転換は、本作が前作から一歩踏み出した点じゃ。

次にCLANNADへの継承じゃ。本作の中心テーマは「家族」じゃ。血の繋がらない晴子と観鈴が選び取る母娘、千年かけて血と術を継ぐ柳也・裏葉の系譜、母を流産で失った美凪と母の再生——どれも「家族をどう作るか、どう失うか、どう取り戻すか」じゃ。この「家族」というテーマが、2004年のCLANNADで全面展開する。CLANNADは「家族を作っていく物語」として書かれるが、その主題の出発点は本作にある。前作KANONが「奇跡」を、本作が「家族」を、それぞれKeyの核心テーマとして据えた。CLANNADは本作の「家族」を受け継いで完成させた作品じゃ。汐をめぐる結末の手付きも、観鈴のゴールの直系じゃと読んでおる。

そして「生まれ変わり・輪廻」という構造じゃ。本作のSUMMER編が確立した「過去の魂が現代に転生し、その悲しみが現代の少女に受け継がれる」という構造は、後の麻枝作品が繰り返し使う型になった。観鈴=神奈の輪廻という骨格は、麻枝が生涯にわたって扱い続けるモチーフの原型じゃ。本作はその原型を最初に提示した作品として、業界史に確かな足跡を残しておる。

業界全体の中での位置付けも書いておく。「泣きゲー」というジャンル名が業界用語として完全に定着したのは、本作の頃じゃ。前作KANONがジャンルの方法論を作り、本作がそれを「救えない結末でも泣ける」という地点まで押し広げた。この二本で「泣きゲー」というジャンルの幅が確定した。一作品がジャンルの幅を広げるというのは、長く生きていてもそう何度も見るものではない。

冒頭の詩と、空へ飛ぶ最後そして主題歌のことを書かねばならぬ。本作のオープニングで流れる「鳥の詩」じゃ。冒頭の詩はこう始まる。「消える飛行機雲 僕たちは見送った」。そして「あの鳥は まだ うまく飛べないけど いつかは 風を切って知る」と続く。当時のわしは、これをただ夏の少年少女の歌として聞いておった。じゃが本編を通すと、この「鳥」「飛ぶ」「届かない場所」という詩語が、全部AIR編の終わりに繋がっておったと分かる。千年の間、空で泣き続けた神奈の魂。そして法術を使い果たしてカラスのそらに転生した往人が、最後に「初めて、両の翼が風をつかんだ」と空へ飛び立つ。冒頭で「まだうまく飛べない鳥」と歌われた者が、物語の果てに本当に風を切る。オープニングの詩が、最終章の救済を先に告げておった。「夏の線路」を歩く子供と、観鈴が辿り着いたあのゴールも、同じ夏の景色じゃ。本作は冒頭の一曲で、千年と一夏の両方を予告しておったのじゃな。

反響のことも史的に記しておく。この「鳥の詩」は、歌い手Liaの実質的なデビュー曲じゃった。当時、エロゲーの主題歌をわざわざ海の向こうで録ったというのは、業界の外から見れば奇妙な話に映ったじゃろう。じゃがこの一曲は、ゲームの枠を越えて広がっていった。後の京都アニメーション版・東映の劇場版でも使われ、コンシューマ移植のたびに鳴り続け、いつしかエロゲーやアニメ音楽を代表する一曲として知られるようになった。わしが言いたいのはこういうことじゃ。エロゲーの中で鳴っていた曲が、外の世界に持ち出されて記憶された——その最初の大きな一例が、この曲じゃった。本作が業界史に残したものは物語だけではない。一つの曲が業界の壁を越えていく道筋を、本作が先に通しておった。これも歴史じゃ。

削れなかった弱点——情報不足と、Hシーンの居心地の悪さ

時間が許してくれなかった弱点も挙げておこう。

一つ目は既に書いた情報不足じゃ。物語の根幹——転生のメカニズム、神奈の魂が観鈴に至る経路、橘家との関係——を推測に委ねた部分は、強度に転じた面もあるが、純粋な設計の甘さとして残った面もある。本作を「難解で投げ出した」というプレイヤーが一定数おるのは事実で、その層を取りこぼした責任は作品の側にある。これは時間が経っても評価が割れ続ける点じゃ。

二つ目はHシーンの配置じゃ。本作は18禁原作で、観鈴・佳乃・美凪の各ルートにHシーンがある。テキストとして読めば、いずれも「呪いを解く儀式」としての文脈づけは一応されておる。観鈴ルートの病床での一夜、佳乃ルートのバンダナを外す一夜、美凪ルートの雨中の一夜——どれも「結ばれることで人物が次の段階に進む」という形で物語に接続しようとしておる。心理描写の比重が肉体描写より高く、麻枝准らしい設計じゃ。文章力という点では当時の水準を満たしておる。

じゃが正直に書けば、本作のHシーンはやはり居心地が悪い。特に観鈴ルートじゃ。観鈴は神奈の魂を継ぐがゆえに体が壊れていく少女で、しかも精神性が無垢に保たれた存在じゃ。その観鈴との性描写は、本作が積み上げる「無垢さ=翼人性」というテーマと、どうしても噛み合わない。テーマが「無垢」を要求しておるのに、Hシーンはその無垢を消費する方向に働く。当時の業界事情——18禁作品である以上はHシーンを入れねばならぬという制約——の中で挿入されておるのは理解できるが、構造としては惜しい。この惜しさは前作KANONから引き継がれた弱点で、本作でも解消されておらん。後にKeyが全年齢に舵を切った判断は、この居心地の悪さへの一つの回答だったと、わしは読んでおる。

三つ目は、佳乃・美凪ルートの強度じゃ。既に書いた通り、本作は観鈴とSUMMER編に重心が偏っておる。佳乃・美凪は構造の統一感には貢献しておるが、単体のルートとしては前座の域を出ない。「観鈴のための助走」という色が強く、二ルートを目当てにプレイする者は満足度が下がるじゃろう。これも設計の意図ではあるが、弱点は弱点として記しておこう。

9.0——時を超えた。ただし完璧ではない

最後に判決を下すとしよう。

「もうゴール、していいよね」は残った。「うちは、あの子の母親なんやって」も残った。裏葉の「いやでございます」「わたくしは、ひとりではございません」も、神奈の母の「ただ…分かち合いたかった」も残った。SUMMER編の骨太さも、観鈴のゴールの場面の到達点も、26年経って削れておらん。これらは時間に削られなかった部分じゃ。本物はこういうものじゃな。26年経って読み返して、わしはまた動かされた。500年生きておると、これが来るのは珍しい。

削れた部分もある。根幹の情報不足、Hシーンの居心地の悪さ、佳乃・美凪ルートの強度不足、ヒロインの無垢さが伝わりきらない隙間。これらは時代の制約と、本作の野心が大きすぎたがゆえの綻びじゃ。当時はこれで十分じゃった、というやつとは少し違う。本作の弱点は「足りなかった」というより「届かせきれなかった」というものじゃ。それだけ高いところを狙っておった証拠でもある。

業界史の中での位置付けは動かない。Key三部作の中核、前作KANONの真琴ルートを作品全体に格上げした一本、後のCLANNADの「家族」テーマと麻枝准の「輪廻」モチーフの源流。少なくとも次の50年は確実に残る。考察が25年書かれ続け、移植が繰り返され、新規プレイヤーが今も流入し続けておる——時間がこの作品を選び続けておる、という事実が、何よりの審判じゃ。

それが9.0の意味じゃ。10に届かなかった理由は、根幹の情報を推測に委ねた設計の甘さと、Hシーンの構造的な居心地の悪さによる。完璧に届けきれていたら10じゃった。じゃが届かせきれなかった部分があるからこそ、9.0じゃ。前作KANONに8.0を付けたわしから見れば、本作はそこから一段、確かに高いところへ登っておる。観鈴のゴールという到達点だけで言えば、これはKey三部作の中でも別格の一点じゃ。歴史を作り、時を超えた作品にふさわしい数字じゃと、わしは判決を下すとしよう。