「埋めたものを掘り起こす」物語が、冬子の裏では「掘り起こさず、ダムの底に沈める」物語に反転する。この一往復が、四部構成全体の背骨だ。
クリアして振り返ると、本作の全ルートは「埋めたものをどうするか」という一つの問いの変奏だとわかる。貴理と結ばれる本筋では「本当の探し物は貴理自身だった」と気づき、冬子の裏の物語では「あれはそのまま、ダムの底に沈めておきますよ」と掘り起こすことそのものを放棄する。同じモチーフが、正と負の両極に振れる。掘り起こす本筋、視点が入れ替わる四部構成、暴走とやり直しの二つの夜、沈めることを選ぶ裏、沈められたことに叫ぶ後日譚。「掘り起こす」と「沈める」。この対称が見えた瞬間、本作は一気に別の作品に見えた。
スコア詳細
「埋めたもの」——掘り起こす物語と、沈める物語
この作品の背骨は、たった一つのモチーフの反転にある。
恭生が集落に戻ってきた表向きの理由は、子供の頃に幼なじみの貴理と一緒に小学校の校庭に埋めた品物を、村がダムに沈む前に掘り起こすことだ。同郷の受験仲間で経済学部志望の英輝や、貴理の二学年下の弓道部マネージャー・有夏まで巻き込んで、毎日校庭に穴を掘る。ここまでは、少年少女のひと夏の宝探しでしかない。
だが貴理と結ばれる本筋の終わりで、恭生は「ようやくみつけたんだ。たぶん、僕の求めていた、本当の探し物」と気づく。校庭の品物ではない。貴理自身だった。掘るという行為が、想いを掘り当てる比喩に切り替わる瞬間だ。
そして冬子の裏の物語で、同じモチーフが正反対に振れる。嵐の夜の小学校で、冬子が恭生に「思い出の品物を、掘り起こしたい?」と試す。恭生は「もう、いいです。探す気はありません」「あれはそのまま、ダムの底に沈めておきますよ」と答える。掘り起こす物語が、掘り起こさない物語に裏返る。
この対称が巧い。同じ「埋めたもの」を、片方では掘り当てる、つまり過去を現在に接続する。もう片方では沈める、つまり過去を持ち越さない。二つの帰結が、ダムという「すべてを水底に沈める装置」を挟んで対になっている。モチーフ一つで、全ルートの意味を束ねている。ここが核だ。
四部構成——「a side role」というタイトルの残酷さ
本作は英語の章題を持つ四部構成だ。この章題の付け方に、作り手の意図がはっきり出ている。
「in the height of summer」が恭生と貴理の本筋。「a side role」が貴理の視点で同じ夏を語り直す章。「blue marbles」が冬子の裏。「when one was a boy」が数年後の後日譚。
注目すべきは二つ目、「a side role」、脇役、というタイトルだ。この章は貴理の視点で夏をなぞり直す。恭生に強引に迫られて傷つき、恭生を諦め、代わりに後輩の有夏との関係へ向かう。有夏が「先輩……愛してます」と告げ、貴理が「好きよ、有夏」と応える。つまり本筋では主人公だった恭生が、この章では文字通り「脇役」に転落する。貴理が恭生を「わたしの涙は、どこにも残らない」と乾いた目で見送る場面、あの温度は、恭生を主役の座から降ろした視点でしか書けない。
一人称視点の作品で、同じ夏を別の人物の目で語り直し、その章のタイトルで元の主人公を「脇役」と名指す。視点を変えれば主役も脇役も入れ替わる、という当たり前を、章題のレベルで突きつけてくる。正直、ここで鳥肌が立った。
河原の暴走と、台風夜のやり直し
本筋には、対になる二つの夜がある。
一つ目が八月十六日の河原。探し物が見つからないまま焦る恭生に、貴理が「ダムが出来たら、もう恭生に会えなくなるから、泣いてるんじゃない!」と本心を漏らす。その直後、恭生は衝動に任せて貴理を河原の草の上に押し倒す。貴理は「ねえ、恭生、変だよ」「い、痛い」と怯える。想いが最悪の形で噴き出す夜だ。
ここで引っかかったのは、この暴走が「主人公が急に別人になる」というよくある破綻ではないことだ。恭生は「そりゃ、僕は阿呆だよ。子供だよ」と自己嫌悪しながら暴走している。暴走が暴走として、恭生の弱さの延長線上に書かれている。人格の破綻ではなく、造形の一部だ。ここを踏み外していないから、後が効く。
二つ目が八月十八日、台風の夜。英輝に殴られて引き留められた恭生が、貴理の家を訪ねる。この一連が、河原の丁寧なやり直しになっている。河原では言葉もなく押し倒したが、台風夜では貴理がエプロン姿で夕食を出し、コーヒーの味から「恭生、本当はコーヒー嫌い?」と本音を見抜き、貴理の方から「これで終わりで、恭生はいいの?」と促す。暴走で奪おうとしたものを、今度は貴理の側の意思で差し出させる。
同じ二人の初夜を、暴走版とやり直し版の二回書く。前者があるから後者が重くなる。この対構造がなければ、台風夜はただの初夜だった。Hシーンがきちんと物語の節目として働いている例だと思う。「あの頃から、ずっと恭生に食べてほしくて」という子供の頃の弁当の記憶まで、この夜に回収される。飛ばすのはもったいない。
冬子——「blue marbles」のブックエンド
裏の冬子の物語は、独立した一本の短編として最も完成されている。
冬子の章は、都会のマンションの場面で幕を開ける。名前も出てこない行きずりの男と、洗面台の鏡の前で。冬子は男に「約束でしょ。ゴム、ちゃんとつけて」と冷たく言い、心の中では「メチャクチャにしてやりたい……この、目の前の、愚かな女を」と自分を嗤っている。荒んだ、割り切った、体温のない関係だ。
この冒頭があるから、嵐の夜の小学校のラストが効く。冬子がこの集落を出た理由は、父の女遊びが村中に知れ渡り、まだ子供だった彼女までが「集落中の誰もが、わたしと同い年の子供までもが知っていた」という視線に晒されたことだった。都会での投げやりな生活は、その過去の続きでしかない。
その冬子が、恭生と結ばれる夜に「あれはそのまま、ダムの底に沈めておきますよ」という恭生の言葉を受け取り、「失恋をではなくて、新しいこれからを祝ってもらっていると思えばいいのよ」と言う。冒頭の鏡の前の冷たさと、ラストの毛布の中の体温。同じ女の、始まりと終わり。ブックエンドで挟んで、一本の再生の物語にしている。冬子ルートのHが最初と最後で温度を反転させる作りは、栞の評価軸で言えば、性描写が造形と完全に噛み合っている。
しかも、貴理がこの夜、冬子に「古積くんを、よろしくお願いします」と恭生を託している。本筋では恭生と結ばれる貴理が、裏では自分から身を引いて冬子に手渡す。表と裏で、貴理の選択そのものが反転する。この作り込みは、やられた。
恭生の受動性と、教室の凄惨な結末
主人公・恭生の造形については、評価が割れる作りになっている。
恭生は、河原で暴走する以外、ほとんど自分から動かない。貴理が来るのを待ち、有夏が申し出るのを受け、冬子に誘われる。この受動性は、本筋では「ヒロインの側に決定権を渡すための器」として機能している。貴理が自分で促し、冬子が自分で誘う。恭生が空だからこそ、ヒロイン側の意思が物語を動かす。ここまでは設計として理解できる。
ただし、この受動性が最悪の方向へ転がる筋もある。八月十七日、河原の翌日の夜。有夏が恭生を教室に呼び出し、「あたしの身体なら、いくらだってあげるから」「先輩だけは、貴理先輩だけは泣かさないで」と自分を投げ出す。ここで恭生がその申し出を受けてしまう側に進むと、踏み込んできた英輝に殴り倒される凄惨な結末になる。英輝の「言い訳、しろよ。してくれよ……」「バカ野郎……バカ野郎……」が刺さる。
この教室の結末は、設計として少し浮いている。「受動的な主人公は、流されて最悪も選びうる」という理屈はわかる。わかるが、ここまで後味の悪い結末を一本用意した必然が、他のルートの穏やかな叙情と噛み合いきっていない。主人公の暗黒面を見せる装置としては効くが、代償として作品全体の温度が一段乱れる。ここは惜しい。
主人公造形は、意図を理解した上で、高くはつけない。恭生に乗って物語に入るのは、本筋の後半に至るまでずっと難しい。視点人物に芯がないと、プレイヤー側も意志を預ける場所を見つけにくい。設計としては読めた。だが体験としての手応えは薄いままだった。
「when one was a boy」——沈めた後に残るもの
四つ目の後日譚が、この作品の後味を決めている。
数年後、ダムは完成し、集落は水底に沈んでいる。完成式典の場に、英輝が戻ってくる。そこで、かつて有夏の弟だった小学生の和典が、式典の最中に「なんで、なんでボクたちの場所に、こんなもの作るんだよ!」「こんなダム、絶対ぶっ壊してやるからな!」と叫ぶ。
この後日譚の置き方が巧い。恋愛の各ルートは、それぞれの形で「最後の夏」を締めくくった。だが集落そのものは、誰かの初恋が実ろうが実るまいが、ただ沈んだ。和典の叫びは、その事実を恋愛の外側から突きつける。「最初の夏」と読み替えて前を向いた者たちの物語の隣に、「絶対にぶっ壊してやる」と過去に縛られたままの少年を置く。沈めることを選んだ冬子の裏と、沈められたことを許せない和典の後日譚。ここでもまた対だ。
恋愛の帰結だけで閉じず、集落の喪失そのものを最後にもう一度鳴らす。この一章があることで、本作は「泣けるギャルゲー」の枠から半歩だけ外に出ている。
8.3——モチーフ一つで全体を束ねた設計
全部クリアした上での評価はこうだ。
本作の強さは、「埋めたもの」というモチーフ一つで、四部構成の全ルートを束ねきったことにある。掘り起こす本筋、脇役に転落する視点交差、暴走とやり直しの二夜、沈めることを選ぶ裏、沈められたことに叫ぶ後日譚。角度は全部違うのに、全部が「過去をどうするか」という一点に収束する。この一貫性は、狙っても作れるものではない。
弱点も明確だ。序盤は長く、恭生の煮え切らなさに付き合わされる時間も長い。テンポは褒められない。教室の凄惨な結末は、作品の温度から浮いている。貴理の台詞まわりに、同じ言葉の繰り返しが目につく場面もある。だから満点圏には届かない。
それでも、モチーフの反転構造と視点交差の設計だけで、十分に元は取ったと思っている。特に「掘り起こす」と「ダムの底に沈める」が表と裏で対になった瞬間。あそこで、この作品が何をやろうとしていたのかが全部わかった。設計を読む人間には、確実に刺さる一本だ。私の評価は8.3。序盤の重さに耐えられる人、視点が入れ替わる構造を面白がれる人にだけ、強く勧める。
