ネタバレゾーン — 未プレイの方はご注意ください ← ネタバレなしページに戻る

大和仁のレビュー(ネタバレあり) — 僕と、僕らの夏

大和仁
大和仁
小学校教諭・知識人
8.0/10
8.0 / 10

恋愛ものの皮をかぶった、戦後開発史の一断面だよ。村を沈めるダムが、その村の山を削った岩で作られている。この残酷な円環を、恭生たちの夏がまるごと背負っている。

ネタバレあり版では、この作品を「消えていく共同体の記録」として読み解く。が説明するダムの型式、校庭に「埋めたもの」を掘り起こそうとして最後は冬子の前で「そのまま沈めておきますよ」と告げる恭生の反転、村社会が一人の女に向けた視線の記憶、そして教育者として見過ごせない、子供たちの描かれ方まで踏み込む。ぼくの得意な歴史考証やSFの出番は少ないと思っていたのに、終わってみれば、ダムに沈む集落の現実という「知らなかったこと」をたくさん調べる羽目になった。8.0でつけた。

スコア詳細

世界の奥行き 9
設定の整合性 8
テーマ・メッセージ性 8
設定の独自性 8
文章力・描写力 7
主人公の造形 5

この作品を「戦後開発史の一断面」として読む

まず、ぼくがこの作品を評価できた足場の話からしたい。恋愛ものだから、と身構える前に、舞台の背景を調べたんだよ。

作品の舞台は、来春に貯水を始めるダムで水没する山間の集落だ。家屋は順に取り壊され、住人は秋までに立ち退きを終える。この「ダムに沈む村」というのは、フィクションのための都合のいい舞台装置じゃなくて、戦後日本で現実に何十件も起きてきた出来事なんだよ。高度経済成長期に治水と電源開発のためのダム建設が一気に進んで、そのたびに一つ、また一つと集落が水の底に消えていった。補償交渉、反対運動、そして敗北。この作品はその現実を、雰囲気だけで借りてきていない。ちゃんと踏まえている。ここがぼくの評価の出発点だ。

面白いのはね、貴理の父・章が現場責任者を務めるダムの型式だ。彼が娘に、掘った岩を積み上げて堤を作るダムなんだと説明する場面がある。これ、調べてみるとロックフィルダムというやつで、コンクリートを大量に使わず、現場の山を削って出た岩石そのものを材料にする型式なんだよ。つまり何が起きているか。この村を沈めるダムは、この村を囲む山を削った岩で作られている。村の土地が、村を殺す構造物に姿を変えている。この円環の残酷さを、作者がどこまで意識していたかは分からない。でも少なくとも「岩を積むダム」という正確な型式を選んで章に喋らせている時点で、雰囲気で書いていないのは確かだよ。設定の整合性は8でつけた。世界の奥行きは9。この村には、主人公の見えないところにも、ちゃんと生活と歴史がある。

校庭に「埋めたもの」を——掘り起こす道と、沈めておく道

本作の中心にあるモチーフは、恭生が幼なじみの貴理と子供の頃に小学校の校庭に「埋めたもの」を、村が沈む前に掘り起こそうとする、という行為だ。ここが文学的にきれいに作られている。

校庭に何かを埋める、というのは、日本の学校文化だとタイムカプセルの記憶と地続きだよね。子供時代を土に埋めて、大人になってから掘り返す。時間を物質に託す行為だ。恭生はそれを「村が水没する前に掘り出したい」という切実な締切とともに背負っている。だが物語が進むと、この「埋めたもの」が実は口実だったことが見えてくる。恭生が本当に掘り起こしたかったのは、土の中の品物じゃない。貴理への、子供の頃からずっと言えなかった想いそのものだった。台風の夜、貴理を抱きしめながら「ようやくみつけたんだ。たぶん、僕の求めていた、本当の探し物」と恭生が漏らす。探し物のメタファーが、ここで人間に着地する。埋めたものは、貴理だった。

ぼくが唸ったのは、この「掘り起こす」というモチーフに、正反対の答えがもう一本用意されていることだ。冬子の視点で進む物語では、恭生は掘り起こさない。嵐の夜、廃校間際の小学校で、村を追われた過去を抱えた冬子から「思い出の品物を、掘り出したい?」と問われて、恭生は「もう、いいです。探す気はありません」と答える。そして「あれはそのまま、ダムの底に沈めておきますよ」と告げるんだよ。同じ校庭、同じ「埋めたもの」を前にして、片方では掘り起こし、もう片方では沈めておく。過去を取り戻す物語と、過去を水に還して先へ進む物語。この対の作り方は、テーマの提示として相当に意識的だ。テーマ・メッセージ性は8。「最後の夏」を貴理が「最初の夏、だよね」と読み替える、あの一行に至るまでの筋が、ちゃんと通っている。

教育者の目で見た、子供たちの描かれ方

ここからは、ぼくの本職の目線で書きたい。小学校で子供たちを見ている人間として、この作品の子供の描き方は、見過ごせないものがあった。

河原に一人で出てくる和多田恵という低学年の少女がいる。夏休みの課題で、河原のゴミを拾っている。「みんなで、何か一つ、よい事をしよう」という約束を、彼女は素直に守っている。「綺麗に見えても、みんな、ゴミを捨てていくから」と言う。この子は、もうすぐ沈む村の河原を、それでも綺麗にしようとしているんだよ。数か月後に水の底に消える場所を掃除する子供。この一場面に、作者の目線の位置がよく出ている。大人はもう諦めている場所を、子供はまだ諦めていない。教育の現場にいると分かるんだけど、子供は「もうすぐなくなるから」という理屈では動かない。今そこにあるものを、今のこととして扱う。恵の造形は、そこをちゃんと分かっている。

もう一人、有夏の弟の倉林和典という小学生がいる。夏祭りで金魚すくいに夢中になっている、どこにでもいる元気な少年だ。ところが数年後を描いた後日譚で、この子が完成したダムの式典に立って「なんで、なんでボクたちの場所に、こんなもの作るんだよ!」「こんなダム、絶対ぶっ壊してやるからな!」と、大人たちの前で叫ぶ。ここでぞっとするんだよ。あの夏、金魚をすくって笑っていた子供の中に、故郷を奪われた怒りが、消えずに残っていた。大人たちは補償と手続きの言葉で自分を納得させることができる。だが子供にはその語彙がない。だから怒りが、加工されないまま、そのまま出てくる。故郷の喪失を、大人の物語ではなく子供の身体に刻んで見せる。これは、この作品が「泣ける田舎恋愛もの」で終わらなかった一番の理由だと思う。感傷ではなく、記録として書いている。

子供を「風景の一部の可愛い添え物」として置くこともできたはずなんだよ。でもこの作者は、恵にも和典にも、ちゃんと固有の反応を与えている。掃除をする子と、後で爆発する子。子供を通して村の消滅を書くという選択に、ぼくは教育者として敬意を持った。

余所者・共同体・記憶の暴力——冬子と貴理が背負ったもの

村を舞台にした作品だから、ぼくは共同体の描かれ方を注意して見た。ここも雰囲気だけの田舎じゃなかった。

この村には「余所者」という言葉が生きている。貴理の父・章は、外から来てダムを作る技術者だ。村が消えるのを望まない反対派からすれば、村を沈める側の人間で、長く「余所者」扱いされてきた。その娘である貴理も、数少ない同級生から虐められて育った。ダム反対運動の中で、たった一人ダム建設のために働き続けた父を持つ子供が、村の中でどんな位置に置かれるか。この孤立を、作者は同情を煽らずに、事実として置いている。推進派と反対派の分断は、抽象的な対立じゃなくて、一人の少女の幼少期に具体的な傷として刻まれている。共同体というのは、こういう風に人を選別する。

そしてこの「共同体の記憶」の暴力が、最もむき出しに出るのが冬子だ。彼女はかつてこの村に住んでいたが、父の不倫が村中に知れ渡ったせいで、家族ごと村を追われた。ここで彼女が語る一言が重い。「集落中の誰もが、わたしと同い年の子供までもが知っていたのだ」。父の女遊びを、村の全員が、自分と同い年の子供までもが知っていた。狭い共同体では、一人の恥が瞬時に全員の共有物になる。そして子供たちは、その恥を親から受け継いで、冬子に浴びせる。冬子が都会で行きずりの男を渡り歩き、自分を「愚かな女」と呼びながら壊すように生きているのは、この村の記憶から逃げ切れていないからだ。彼女が村に戻ってきたのは、里帰りじゃない。ここから何もかも消え去るのを、この目で確かめるための儀式だった。村が水に沈むことは、彼女にとっては自分を焼いた記憶ごと沈むことなんだよ。だから恭生の「そのまま沈めておきますよ」は、冬子にとっての救いになる。掘り起こさない、という選択が、この人にとっては生き直しの許可なんだ。共同体の記憶をダムの水で埋葬する、という着地は、ぼくには文学的にちゃんと筋が通って見えた。

弱点——恭生の煮え切らなさと、貴理の言葉の反復

背景と主題を高く買った以上、引っかかったところも正直に書いておく。

まず主人公の恭生。優柔不断で、能動的な選択をなかなかしない。想いを掘り起こすと決めていながら、それを口実の穴掘りにすり替えて先延ばしにする。挙げ句、8月半ばの河原で衝動に任せて貴理を強引に抱いてしまう。この暴走は、後の台風の夜に「やり直す」ための対の場面として作られていて、構図としては理解できる。荒れた河原での過ちを、屋根の下で貴理自身が主導権を握る夜に置き換える。構図の意図は読める。ただ、意図が読めることと、主人公に乗って物語に入れることは別なんだよね。恭生の弱さに付き合わされる序盤は、正直ぼくも何度か集中が切れた。主人公の造形は5でつけた。設計の意図を認めた上で、体験としては5、という意味の数字だよ。

もう一つ、貴理の台詞まわし。彼女は同じ想いを、少し表現を変えながら何度も繰り返して言う癖がある。感情が高ぶった場面ほど反復が増える。これを「純朴な少女の、言葉の足りなさ」として愛せる人もいるだろうし、実際そう読める場面もある。ただ、掘り下げるべき感情のピークで言葉が同じ場所を回り続けると、そのぶん読み手の集中は削れる。勿体ないと思うのは、この村の背景も、テーマの対の作り方も、かなり緻密なのに、肝心の中心人物二人の描線がもう一段くっきりしていたら、と感じてしまうところだ。文章力・描写力は7。叙情的な情景描写は確かに強いんだけど、会話の彫りは場面によってムラがある。

それと、有夏という後輩の子の扱い。貴理を泣かせないためなら自分の身体を投げ出す、というところまで踏み込む一方で、その激しさの根が十分に育てられないまま突入する場面もあって、行動に対して土台が薄いと感じる箇所があった。彼女が貴理へ向ける想いそのものは、別の道筋できちんと結ばれる場面もあるだけに、なおさら惜しい。

8.0——ぼくが知らなかったことを、たくさん知れた

点数の理由をまとめて締める。ネタバレ版でも数字は変わらない。

プレイ前は、これはぼくの評価軸では測りにくいだろうと思っていた。歴史ものでもSFでもオカルトでもない、現代の田舎恋愛ものだからね。ところが蓋を開けたら、ダムに沈む集落という舞台が、ぼくの一番大事にしている「世界の奥行き」の軸を正面から動かしてくれた。戦後のダム建設で実際にいくつもの村が消えたこと、補償と立ち退きと反対運動の顛末、掘った岩で堤を作るダムの型式。ぼくはこの作品をやりながら、そういう現実をいくつも調べた。プレイして知らなかったことを知る、というのがぼくのエロゲーをやる理由の中心にあって、本作はその基準をしっかり満たしたよ。

校庭の「埋めたもの」を掘り起こす道と沈めておく道の対、余所者として選別される親子、村の記憶に焼かれた冬子、そして掃除をする恵と後で爆発する和典。故郷の喪失というテーマを、大人と子供の両方の身体を使って書ききっている。感傷で泣かせて終わりにせず、消えた共同体の記録として残そうとした跡がある。ここがぼくの最大の加点ポイントだ。雰囲気で田舎を借りてきた作品じゃない。内輪参照ではない、外の現実に足をつけて書かれた作品だよ。

弱点として、恭生の煮え切らなさは体験の負荷になるし、貴理の言葉の反復と有夏の造形の薄い場所も残る。中心人物の描線がもう一段くっきりしていたら、8.5まで行けたと思う。だが背景の厚みとテーマの誠実さは本物だ。総合8.0。故郷を失うということ、共同体が人をどう覚えているかということ、そういう問いに正面から向き合いたい人に、ぼくはこの一作を勧める。金魚をすくって笑っていた和典が数年後に何を叫ぶか。それを見届けるためだけでも、やる価値がある。