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マルチナのネタバレレビュー — 未来にキスを

マルチナ・カーンスタイン
マルチナ・カーンスタイン
歴史の生き証人
8.8/10
8.8 / 10

2001年9月。発売当時、わしはこれをジャケ詐欺と読んだ。25年経って、それが作者の戦略じゃったと判ったぞ。

当時、店頭で本作のジャケを見たわしは「みさくらなんこつの絵で従妹奴隷モノ」と判断した。買ったが、しばらく積んだ。プレイしたのは半年後じゃな。今でも覚えておるが、が「お兄ちゃん、ボクのこと、奴隷にして?」と告げる場面で、わしは「またこのテンプレートか」と思った。そう思わせた時点で、本作は罠を仕掛けておったわけじゃ。25年後の再プレイで判ったのは、ジャケと煽り文句そのものが「読み取れぬ者を篩い落とす装置」として置かれておったということ。元長柾木の腹の据わり方は当時よりも今のほうがよく見えるのう。8.8は、業界史の中でセカイ系初期実装の代表作として位置づけた上での評価じゃ。

スコア詳細

歴史的意義 10
作品の尖り・唯一無二性 9
テーマ・メッセージ性 9
設定の独自性 9
世界の奥行き 8
文章力・描写力 8

当時の記憶——2001年9月、エロゲー業界が「セカイ系」を実装し始めた頃じゃった

まずは2001年9月の業界文脈を、当時の記憶から呼び戻すぞ。

2001年は、エロゲー業界が「セカイ系」と後に呼ばれる作風を本格的に実装し始めた年じゃった。前年の2000年9月にはKeyの『AIR』が発売され、神奈の物語によって「決定的に救えない少女と寄り添う物語」の文体が業界に定着し始めておった。leafの『ToHeart』『WhiteAlbum』が築いた萌え恋愛ADVの枠組みが、2001〜2002年にかけて急速に哲学・喪失・救えなさへと舵を切っていった時期じゃ。本作はその只中、2001年9月にotherwiseブランドから出ておる。シナリオ元長柾木、原画みさくらなんこつ、音楽 I've。この組み合わせは当時から異様じゃった。

元長柾木は本作の2年前、1999年に『sense off』を出してセカイ系の旗手の一人として知られ始めておった。続いて2000年に『Fluorite ~sukisuki daisuki~』、本作の2年後の2003年に『ラストオーダー』。雑誌『新現実』『ファウスト』への寄稿、東浩紀『美少女ゲームの臨界点』『動物化するポストモダン』の周辺議論でセカイ系の代表的書き手の一人として論じられる作家じゃな。当時のエロゲー業界では珍しい、「批評の対象として論じられる作家」じゃった。

……ただし、当時の本作の評価はそう高くなかったぞ。批評空間(Erogamescape)の中央値は76前後で、現在も二極化評価のまま固定されておる。「セカイ系の初期傑作」と評する高評価層と、「萌えゲーとして失敗」「電波自慰」と評する低評価層が並走しておった。みさくらなんこつのジャケと「奴隷調教ラブコメ」の煽り文句で買った購買層と、元長柾木目当てで買った購買層が、同じパッケージで真逆の読み方をしていたわけじゃ。これは本作が「読み取られないことを織り込み済みの設計」だった証拠じゃと、わしは今なら言うぞ。

当時のわしの記憶。プレイした時、霞ルートのNEW TESTAMENTで首輪を翼蛇のリングに交換する場面までは「ふむ、依存系ヒロインの調教モノにしては陰がある方じゃのう」と思っておった。慧子という年下の親戚が登場して「霞ちゃんは『お兄ちゃん』っていう概念が好きなんだよ」と告げる場面で、わしは構造が反転したのを感じたぞ。「あ、本作は調教モノを装ってセカイ系を書いておるのか」と。当時はそこまでで止まった。25年後に判ったのは、その先にもっと深い地層が埋まっておったことじゃ。

再プレイして気づいたこと——主題歌の歌詞が物語のメタ要約じゃった

再プレイして最も驚いたのは、当時聞き流しておった主題歌の歌詞じゃ。

主題歌「Kiss the Future」は SHIHO が歌い、作曲は I've の高瀬一矢、編曲は C.G mix。当時のI've全盛期の布陣じゃな。核心は作詞。本作の主題歌の作詞者は、シナリオを書いた元長柾木本人なんじゃ。当時のわしはこれを単なる主題歌として聞き流しておった。再プレイして歌詞を読み直したら——驚いたぞ。歌詞が物語のテーマを歌っておるのではない。歌詞が物語のメタ要約として置かれておったのじゃ。

歌詞の中盤に 「Automatonじゃなく ヒトに進化して」 という一行がある。これは椎奈ルートのエンディング名「AUTOMATON(自動機械から人間へ)」のテーゼそのもの。続けて 「目を閉じた先に 断絶の祈りの果てに」 という対句が来る。これは悠歌ルートDIVINEのクライマックスで康介が告げる「目を閉じればいい」「キスは世界を閉じるための儀式じゃ」「断絶ゆえに存在するかすかな希望」と同型の表現じゃ。リフレインには 「ボクら生まれ変わる 新しいヒトに 最後のGenesisを越えて」。最終話 GENESIS そのものの名前と、霞ルートで慧子が告げる「新しい人」のテーゼが同時に書き込まれておる。

式子ルートも歌詞に紛れ込んでおる。冒頭近くの 「強制的に 走る物語」 は、式子の「あなたとの物語をね、前みたいに強制的じゃなくてね、自分の意志で選び取りたい」と裏返しの対応関係じゃ。エンド名「IN CHAOS」も歌詞の同箇所「誰も追いつけない 混乱を」と韻を踏んでおる。主題歌の各ブロックが、4ヒロインの4ルートにそれぞれ正確に対応するように設計されておる。当時のエロゲー主題歌で、ここまで物語と歌詞を構造的に接続させた例を、わしは他に知らんぞ。

このやり方は、業界史的にも独自じゃ。同時期のKey作品『AIR』『CLANNAD』も主題歌に主題性はあるが、ここまで各ルートの結末名と直接対応する歌詞構造は組んでおらん。Leafの『WhiteAlbum』のような「歌そのものが物語の核」の作りとも違う。本作は「歌詞が物語の哲学を二重化する」という、わしが他作品で見たことのない構造を取っておるのじゃ。シナリオライターが作詞も担当できる、という条件が揃って初めて成立する設計じゃな。これは元長柾木という作家の腕じゃし、本作にしかない尖りでもある。

4ヒロイン×GENESIS——同じテーゼを4方向から検証する群像劇

4ヒロインの4ルートは、別々の角度から同じ核心テーゼを検証する群像劇として設計されておる。再プレイで構造がよく見えたぞ。

霞ルート NEW TESTAMENT(新約)は「概念愛」の検証じゃ。霞は「お兄ちゃん、ボクのこと、奴隷にして?」と願う依存系ヒロインに見える。だが終盤、慧子が「霞ちゃんは『お兄ちゃん』っていう概念が好きなんだよ」と言語化する。康介個人ではなく、自分の中の「お兄ちゃん」像を所有したい願い。康介本人がどう振る舞うかは二次的で、霞は「自分の中の他者像」さえあれば成立する関係を求めている——これがセカイ系の核心テーゼ「他者は理解不能であり、だからこそ自分の中の他者像を信仰するしかない」のエロゲー版実装じゃ。奴隷契約という萌え記号を、概念愛という哲学装置に転用する仕掛けは、当時のエロゲー文脈の中では相当に攻めておる。

式子ルート IN CHAOS(混乱したままの定常状態)は「意志による選び直し」じゃな。式子は皮肉屋で哲学的問答好き、「現実なんてとっくに帰るべき故郷をなくしてる」と冷笑する。彼女が「あなたとの物語をね、前みたいに強制的じゃなくてね、自分の意志で選び取りたい」と告げて、エンディングは「進展のないこと自体が進展」という反転構造で終わる。「混乱したままの定常状態」を肯定的にエンディング名として置く選択は、当時のエロゲー文脈ではほぼ例がないぞ。普通は「曖昧なエンド」は「悪い結末」として扱われる。本作は「曖昧であること自体が選択である」と言い切っておる。

椎奈ルート AUTOMATON(自動機械から人間へ)は「檻からの脱出」じゃ。椎奈の母・彩子が河原で「家族って独りでに動き出して、その中にいる人を支配するようになっちゃう」と告白する場面。家族=自走するシステムという比喩の連鎖が言語化されて、椎奈は一晩中街を歩き「あそこはもう……檻じゃないです」と告げる。自動機械(檻に閉じ込められたシステムの一部)から人間(自分で動く存在)への移行——これを「自動機械から人間へ」とエンディング名に直結させる名付けは、当時の業界では極めて尖っておった。家族問題をシステム論的比喩で処理する作品自体が稀じゃった。

悠歌ルート DIVINE(ファーストコンタクト)が本作で最も深い場所に置かれた哲学じゃな。悠歌は神社の娘で巫女見習い。彼女は父(神主)の言葉として「巫女さんの『神様の言葉を聞く』っていう力は、人が元々持ってる力」「普通の人ができる『他人の心を理解する』のと巫女さんがする『神様の言葉を聞く』のは、してることっていうのはおんなじ」と語る。そして彼女は「人の気持ちが判っちゃったら……その人のことでもうどきどきできなくなっちゃう」という呪いを抱えておる。他者を完全に理解してしまうと、もう恋できなくなる——この反転、ぞくっとしたぞ。当時のエロゲーで、ここまで「他者理解の絶望」を真正面から書いた作品は、わしの記憶では数えるほどしかない。

そして最終話 GENESIS(創世)は4ルートの先にある「全部を経験した後の日常」じゃ。叔母帰宅から3週間後のGW明け月曜朝。霞のお兄ちゃん呼びも、岡崎さんも、ハンバーグも、式子のお節介も、悠歌の浮世離れも、椎奈のくきゅくきゅも、すべて何事もなかったかのように戻っておる。「あの2週間のこと」は誰も口にしない。哲学的洞察を経験した者が、それを抱えたまま日常に回帰する。これがGENESIS(創世)の名付けの意味じゃ。新しい日常の創生。新しい人として生まれ直した上で、何事もなかったような日常を選び取ること。「日常に回帰すること」を「創世」と名付ける選択には、わしも唸らされたぞ。

4ヒロインの4ルートが、それぞれ「概念愛」「意志選択」「檻脱出」「断絶希望」という別々のテーゼで同じ核心(他者は理解不能であり、だからこそ自分の中の他者像が必要)を多角的に検証する。群像劇としての完成度は、2001年時点で見ても上位じゃな

DIVINE——「断絶ゆえの希望」が本作の最深部じゃ

5系統の中で、わしが時間に削られないと判断したのは悠歌ルート DIVINE じゃ。

DIVINEのクライマックスで康介が告げるのは次の台詞じゃな。

「目を閉じたらいい……ただそれだけなんだ。そうしたら……ほら、俺も悠歌も新しいだろ?」
「言葉っていうのは、相手に伝えるように話すものじゃないんだ。むしろ、誰にも伝わらないように話すものなんだ」 — 康介、悠歌ルート DIVINE

「目を閉じる」というのは文字通り視覚情報を遮断するだけではない。相手の現実を見ない、相手の内面を読み取ろうとしない、相手の意思疎通の信号を受け取らない——という選択じゃ。これは現代的なコミュニケーション至上主義の真逆を行く哲学じゃな。「分かり合えること」が至高ではなく、「分かり合えないこと」を残しておくのが愛じゃ、と。

当時のわしは、ここをセカイ系の他作品(特に同時期のKey作品)の「分かり合える奇跡」と真逆の方向性を取っていることに気づかなかった。再プレイで判ったが、本作は2001年の業界の主流とは反対方向に賭けたのじゃ。Keyの『AIR』が「分かり合えない少女と寄り添う」物語だとしたら、本作は「分かり合えないことを祝福する」物語じゃった。これが業界史的にどれほど稀有な選択じゃったか、25年経たないと見えにくい部分じゃのう。

悠歌は最後に「キスっていうのは、世界を閉じるためにするんだね」と気づく。これでタイトル『未来にキスを』の意味が完成するわけじゃ。未来にキスをするとは、現在の意思疎通を捨てて、未来の自分の中の相手だけを所有する儀式。タイトル回収の見事さで、本作はかなり高いところにあるぞ。当時はわしも「うむ、まあ良いタイトルじゃのう」程度に流したが、再プレイで読み直すと——これは構造的にも、哲学的にも、極めて精緻に置かれた一語じゃ。これは上等じゃ。

SF的設定(巫女=神様の言葉を聞く者)を経由せず、普通の高校生の悠歌の悩みとしてこのテーゼを提示する腹の据わり方も評価する点じゃな。当時のセカイ系作品の多くは「特殊能力者の絶望」や「世界の運命を賭けた選択」という装飾を必要とした。本作は装飾を捨てて、ただの普通の高校生の女の子の悩みとして「他者理解の絶望」を提示しておる。これが本作の文章力の冴えじゃ。当時の業界水準で、装飾を捨てる勇気を持った作家は数えるほどしかおらんかった。

業界史の中で——『sense off』『AIR』『家族計画』との関係

本作の業界史的位置を整理しておこう。2001年前後のエロゲー業界マップに本作を置いてみるぞ。

1999年に元長柾木は『sense off』をotherwiseから出しておる。これがセカイ系の初期実装として知られる作品じゃ。同年6月にはKey『Kanon』が出て泣きゲーの文法を業界に定着させ、2000年9月にKey『AIR』が神奈の物語によってセカイ系の文体を業界に広めた。本作(2001年9月)の前後の時期には、アリスソフト『大悪司』(2001年8月)、同人版『月姫』(TYPE-MOON、2000年12月)、D.O.『家族計画』(2001年12月)など、業界が一斉に「真面目に物語を書く」方向へ舵を切った時期じゃ。

本作の位置はその中で特異じゃ。本作は「萌え記号を借用して哲学装置を組む」という、当時としては極めて尖った戦略を取っておる。同時期のKey作品が「萌え記号と哲学装置を併存させる」のに対して、本作は「萌え記号そのものを哲学装置に転用する」。奴隷契約は概念愛の装置、お兄ちゃん呼びは依存と自立の装置、ヒロイン攻略は核心テーゼの多角検証の装置、と。これは当時から見ても珍しい腕じゃった。

東浩紀『美少女ゲームの臨界点』周辺の議論で、元長柾木は「セカイ系」の代表的書き手の一人として何度も論じられておる。本作はその系譜の中間点に位置する作品じゃ。『sense off』(1999)で実装され、本作(2001)で4ルート群像劇として展開され、『ラストオーダー』(2003)でさらに先鋭化する——という流れの真ん中。本作が果たした業界史的役割は、セカイ系を「萌えの皮の下に組み込んでも成立する」と実証した点じゃ。Keyのように真正面から泣きゲーとして提示するのではなく、ジャケ詐欺と批判されることを織り込んだ上で、しかし哲学装置を仕込む——という戦略は、後続のエロゲー作家にも影響を与えたじゃろうな。

批評空間(Erogamescape)の中央値76は、25年経った今も二極化評価のまま固定されておる。「萌えゲーとして失敗」「電波自慰」と評する低評価層と、「セカイ系初期傑作」「元長柾木の代表作」と評する高評価層が並走する状態じゃ。これが時の審判の結果じゃ。「広く愛される作品」にはなれなかった。だが「一部の読者に深く届く作品」として残っておる。批判される構造として置かれた作品が、25年経っても消えずに語られている事実こそ、本作の業界史的価値の証明じゃろう。

みさくらなんこつ起用の判断も、当時から議論があった部分じゃな。「みさくらなんこつ=過激なエロ・特殊嗜好」というイメージで、本作のシナリオ性とは噛み合っておらん——という批判じゃ。じゃが、これも作者の戦略の一部じゃろう。「真面目な絵で出したらセカイ系として読まれる作品を、エロ絵で出して『萌えエロゲー』として誤読させる」という意図的な設計。誤読されることを織り込んだ作品として、本作は業界の中で異質な位置を保ち続けておる。

時間の審判——25年経って、これは残る

最終評価を整理するぞ。

本作は時に削られておらん。25年経って、テーゼ・歌詞・構造のすべてが今でも有効じゃ。「他者を完全に理解すると恋できなくなる」「奴隷契約は概念愛の装置」「目を閉じることで世界を閉じる」——これらの提示は2001年に書かれた言葉として古びておらん。むしろ現代の意思疎通至上主義の時代に、本作が出した「分かり合えなくていい」という反論は、当時よりも今のほうが鋭く響くじゃろう。

8.8の内訳について。歴史的意義10はセカイ系初期実装の代表作の一つとしてつけた。これは業界史の中で位置が動かんぞ。尖り9・テーマ9・独自性9は、萌え記号を哲学装置に転用する戦略、4ルートを別々のテーゼで検証する群像劇構造、主題歌が歌詞構造で物語を二重化する設計——どれも本作にしかない発想じゃ。世界の奥行き8・文章力8は、本作の弱点を反映させた数字じゃな。

10に届かなかった理由は3点。1点目は主人公・笹本康介の前半と後半の声質乖離じゃ。前半のシニカルなツッコミ型康介と、後半の観念モノローガー化した康介が乖離しておる。「俺たちは平面的な感じがする……絵に描いたみたいって言うか」という終盤独白は、明らかに作者の主題そのものを口にしておる。これは元長柾木の他作品でも見られる手癖じゃが、本作でも作劇上の弱点として残った。

2点目は複数ライター体制由来の温度差じゃ。シナリオは元長柾木(メイン)・シュート彦・大瀧大輔の3名体制。元長が握っておる部分(霞・式子・悠歌の哲学パート)と、他ライターが書いておると推測される部分(日常コメディ・椎奈の軽妙な掛け合い・中谷海彦のサーフィン青年ネタ)で文体の重さに差がある。椎奈ルート AUTOMATON のテーゼは深いが、椎奈本人の口調「くきゅくきゅ」の軽さがテーゼの重さと釣り合っておらん場面がある。これは作品の闇の濃度を一段薄める要因じゃ。

3点目は章間の有機的な絡みの薄さじゃな。4ヒロインの4ルートで扱われるテーゼ(概念愛・意志選択・檻脱出・断絶希望)は本来もっと密接に絡んでも良かった。各章が独立した「テーゼの検証実験」として並列配置されておって、章間の有機的な絡みが弱い。式子の「自分の意志で」と悠歌の「目を閉じる」が哲学的に対応しておるのに、その対応は主題歌の中でしか結ばれておらん。章を跨いで対応を結ぶ仕掛けがあれば、5系統の構造はさらに上等になっただろうのう。

……ただし、この弱点を全部足しても本作は8.8の水準にあるぞ。テーゼの提示が強く、主題歌で全体を回収する設計が独自で、悠歌ルートの哲学が深く、業界史的にも位置が動かん。これは残る。500年後にエロゲー史を語る者は、必ず本作の名を挙げるじゃろう。それは予言ではない、観察じゃ。25年経って消えなかった作品は、もう50年も100年も消えん。

2001年9月、当時のわしはこれを買ったが半年積んだ。プレイ後も「ジャケ詐欺じゃのう」と思った。25年経って再プレイして、わしは自分の当時の眼が浅かったと白状せねばならんのう。本作は当時のわしには見えていなかった層を持っておった作品じゃ。元長柾木の腹の据わり方を、今のわしは敬意を持って評価しておるぞ。8.8は、当時見えなかった作品の真価を25年遅れで承認する数字じゃ。

「2001年、わしはこれをジャケ詐欺と読んだ。25年経って、それが作者の戦略じゃったと判った。元長柾木がエロゲーの皮を借りてセカイ系の最も先鋭化した姿を結晶化させた——これは上等じゃ。当時見えなかった作品の真価を25年遅れで承認する。8.8じゃ。」

— マルチナ・カーンスタイン