ストーリー詳細 — リフレインブルー
本作は、7年ぶりに想い出の海辺を訪れた添乗員・松永善博の1週間を描くデジタルノベル。到着の日から8月6日ごろまでの共通の日々のあと、話はちなつ・雫・奈緒・つぐみ・由織・深景の6人それぞれの章に分かれる。どの章も後半で7年前の夏に触れ、深景の章がその真相を明かす最後の話にあたる。このほかに、誰とも恋人にならずに海辺を去る結末と、声だけが語る結末の、2種のバッドエンドがある。記述はWindows版『リフレインブルー』(elf・1999年・18禁)の内容に基づく。 ▼詳細を読む はネタバレを含みます。 プレイ済み設定をするとアコーディオンがデフォルトで展開されます。
7年前の夏 — 深景との出会い
7年前、陸上の長距離に打ち込んでいた松永善博は、右膝の骨にひびが入って走れなくなった。周りの励ましさえ疎ましくなって家を出て、バスに揺られるうちにたどり着いたのが、静かな海辺の蜻蛉海岸だった。波打ち際にしゃがみ込んでいた善博に声を掛けたのは、旅をしながら写真ほどの小さな風景画を描いている年上の女性、深景。この夏の記憶は、現在の1週間のあちこちに回想として差し込まれ、物語の縦軸になっている。
「そう…深いに景色の景って書いて、深景」と名乗った彼女は、行くあてのない善博を自分の宿に泊め、宿賃まで出してくれた。膝の故障を打ち明けた善博に、深景は「善博くんには、走るのをやめて立ち止まることが、必要だったのよ。…人生という旅の途中でね」と言う。それから二人は毎日、海へ突き出た岬の先端で過ごした。深景はそこを「特等席」と呼び、海の絵を描いていた。
「波の音がね…私を飲み込んでしまいそうで。不意に私が消えてしまいそうな気がするの」(深景)
瑠璃色の瞳に、ときおり虚ろな翳りが浮かぶ人だった。山の木陰で、二人は恋人になる。古い旅館の同じ部屋で、深景は「世界で一番大きな鏡って、なんでしょうか?」となぞなぞを出し(答えは夜空を映す夜の海)、旅館のおばさんから聞いたという海童女ちゃんの話をした。寂しい海辺に現れて人の輪に紛れ込む、小さな女の子の言い伝えである。
堤防でウミガメの孵化を待った夜には、「どうしてそんな厳しい海に、ウミガメの子供たちは還って行こうとするんだと思う?」と問いかけ、答えを言わないまま、流れ星に「これからもずっと、善博くんと一緒にいられたら」と願った。宿の庭で花火をした夜には、花言葉が「悲しい想い出」だという彼岸花の話をし、前の日に二人で植えた月下美人の苗について「想い出を、何か形にして残しておきたい」と話している。好きな花はコスモス。
岬から見た海を深景が描いた小さな絵は、いまも額縁ごと善博のポケットに入っている。別れは8月7日の朝だった。ただ、その別れがどんな形だったのか、深景がなぜ去ったのかは、どの章をたどるかで語られ方が変わる。7年前の夏は、6人の章ごとに別の形で語り直されていく。
序章 — 7年ぶりの蜻蛉海岸(到着の日〜8月6日)
それから7年。24歳になった善博は、バス会社の添乗員として2年のキャリアを積み、東陽学園のサマースクールに付き添って、もう来ないと思っていた蜻蛉海岸へ戻ってくる。宿は7年前には無かった臨海寮の天山荘。関西弁の管理人と、お手伝いの川奈由織が一行を迎える。かつての観光地はすっかり寂れ、寮のほかに住む人はいない。それなのに善博の前には、彼の名前を知っている黒髪の幼い少女が現れる。
行きのバスで、善博は海にはしゃぐちなつと、その世話を焼く3年生の杉野治美と親しくなる。到着の夜、夢の中で「私は織姫…」と名乗る声が、善博を支えてきた「仮止めの糸」をちょうど解くところだったと言う。続けてほしいと頼まれると、声は「また運命を巡りなさい」と告げ、最後に『私は、海で待っています』と響かせた。
翌日からの数日で、善博は雫・奈緒・つぐみたちサマースクールの生徒や、寮の人々と関わっていく。少女は「よしひろくん」と呼びかけながら名前を明かさず、夜ごと縁台で「このうみべに伝わる、七夕のおとぎ話」を語る。砂浜に倒れていた娘を漁師の彦星が助け、娘は「織姫」と名乗って彦星と夫婦になる。けれど織姫は海の水から布を織る「水の棚機女」で、正体を知られて天の国へ連れ戻され、年に一度の逢瀬だけが許された。夢の織姫は、縦糸は善博自身、横糸は出会った人たちで、二つが交わるのは一度きりだと語り、やがて「あなたに近い運命を持った、この人の糸を…」と言い出す。
山登りの日の夜、名乗らない女の声が「糸を織りなすことで、運命を結びつけた」と告げ、「あなたと最も近い運命を持っている人」の過去を善博に見せる。この日から翌8月6日にかけて、話は6人それぞれの章へ分かれていく。
ちなつの章 — 名前を借りた夏
バスの窓から海にはしゃぎ、善博を「おにーさん」と呼んで慕う岩崎ちなつ。東陽学園の1年生で演劇部と紹介され、3年生の杉野治美がいつも姉のように世話を焼いている。明るく甘えん坊に見えるちなつだが、治美は善博に、この子は本当は人見知りで、無理に明るく振る舞っているのだと打ち明ける。山登りの日の夕方、善博は通り雨の林で、ずぶ濡れのちなつを見つける。
雨の林で、ちなつは「雨に濡れちゃえば…泣いてたってわかんないでしょ」と言う。その夜の夢に映ったのは、幼いちなつの記憶だった。母の千亜希を亡くしたあと、植物の研究者である父は海外の大学に招かれ、ちなつを杉野家に預けて旅立つ。別れぎわ、父とちなつは「泣かない」と指切りをした。戻ってきたときには、たくさん泣いても甘えてもいい。そういう約束も添えて。
8月6日の夕食の席で、ちなつは治美に「ホントのお姉ちゃんでもないくせに!!」と叫ぶ。そのあと治美が善博に事情を明かした。ちなつは東陽学園の生徒ではなく、治美の従妹だった。幼い頃から杉野家で一緒に育ち、人前では治美を「先輩」と呼んでいる。治美はちなつを元気づけようと、同じ「ちなつ」という名前の演劇部の後輩「岩崎」さんの名前を借りて、サマースクールに連れてきたのだった。夜、ちなつは「ちなつだって、いろいろガマンしてきたんだよ…」と、父と別れたときも学校の友だちと別れたときも、ずっと我慢してきたと話す。この夜、縁台で少女と線香花火をした善博は、昔も誰かと二人で花火を見たことを思い出しかけ、7年前に宿の庭で深景と花火をした夜がよみがえる。
最終日の8月7日の朝、治美はちなつの目の前で善博に口づけし、自分は本当に善博が好きなのだと言う。だがちなつは、自分に諦めさせるための芝居だと見抜いて「ウソ」と言い切った。治美は善博に「あの子に、諦めさせてあげてください」と頼む。夕陽の海で、ちなつは9月に遠くの街へ転校することを明かした。「ちなつだって、みんなと卒業したかったんだよ…。転校なんて、したくなかったんだよ…」。父との約束を破って、ちなつは初めて泣く。そして善博に想いを打ち明けた。
「ちなつね…おにーさんのこと、好きだよ」(ちなつ)
善博は何も答えない。沈んでいく夕陽に、ちなつは「今日の日に…さようなら…」とつぶやく。その夜、また会えると約束してほしいと求めるちなつに、善博の答えは「いや、もう会えないよ」だった。出来ない約束なんて、しない方がいい。善博は言葉を遮るように口づけし、「これでもう…忘れて」と告げて立ち上がる。「ひどいよ…」と、ちなつは泣いた。
ひとりになった善博の胸によみがえるのは、7年前の最後の夜だった。深景は「もう会えない」と告げ、理由は言わなかった。「私だって離れたくないわ…でも」。食い下がる善博に、深景は「ひとりの女として…私を抱いて欲しい」と求めた。善博は「これで最後じゃないんだから」と断り、その代わりに、また会えると深景に約束させる。けれど翌朝、深景は謝罪とあの海の絵を譲るという置き手紙、そして額縁を残して消えていた。手紙の中身で善博が覚えているのは『旅の終わりに、あなたに会えてよかった』という一文だけ。深景があのように去ったのは「僕を『大人にする』ためだった」と考えることで、善博はちなつを突き放す自分を納得させようとする。この章では、深景の病や死には一言も触れられない。善博にとって7年前は、約束を残して相手が消えた夏として語られる。
その深夜、ちなつが善博の部屋を訪ねてくる。「ちなつ、忘れるよ。この気持ち、忘れるから…」。もう二度と会えないのは我慢する。でも何も残らないのは嫌だから、サヨナラする前に何かを残してほしい、とちなつは求めた。それが傷跡になるとしても、と確かめる善博に、ちなつは「うん、それでもいい…何にも残んないよりいい」と答える。7年前に深景の求めを断った善博は、今度は断らなかった。この気持ちはみんな忘れる、想い出だけでいい、とちなつにもう一度約束させて、善博はその求めに応じる。
出発の朝、ちなつは一言も口をきかなかった。数年後の夏、引っ越したばかりの街で、善博は髪を長く伸ばしたちなつと偶然に再会する。ちなつは「これって絶対うんめーだよね」と言い、そして打ち明けた。
「約束、守れなかったよ。出来ない約束だったよ」(ちなつ)
あの夜の約束どおり、ちなつは一生懸命に善博を忘れようとした。けれど、どうしても忘れられなかった。「ねえ、それでもダメなのかな。やっぱり忘れなきゃダメなのかな。また我慢しなくちゃダメなのかな?」と問うちなつに、善博は「もう我慢しなくてもいいよ」と応える。戻ってきたらたくさん泣いていい、という父との約束に重なるように、ちなつは善博の前で声を上げて泣きだした。
雫の章 — 海の詩
早瀬雫は、クラスでほとんど口をきかない3年生。暑いのが嫌いで水泳の授業を抜け出しては岬に隠れ、兄が聴かせると約束してくれた「海の詩」に耳を澄ませている。「見ているんじゃなくて…聴いているの…」。スイカは血の色だから嫌い、暑さも汗も虫も嫌い、と雫は「嫌い」を口にすることが多い。8月5日の午後、善博は岬でもう一度雫と話し、ポケットの額縁の絵と、まだ果たせていない約束のことを打ち明ける。
岬で雫は、兄は「人魚に恋をして…行ってしまった…」と話す。善博は深景の絵を見せ、会ったら返すと約束したまま、まだ果たせていないと言う。「それでも僕は、待ち続けることしか出来ないよ…。彼女がここに来るまで、ずっとね」。善博の独白は、そこに「それがもはや『決して果たし得ない約束』なのだと、知っていたのだとしても…」と書き添える。晴れた空から雨の匂いを嗅ぎ当てた雫の言葉どおり、本当に雨が降りだした。「悲しいから…涙を…流したの…」「空が…」。
夢に映るのは、幼い雫だった。かごめかごめの輪の中で責められ、置き去りにされる雫の味方は兄だけだった。兄は雫に「嫌い」と言わない約束をさせ、「…俺と同じ歳になったら、聴かせてやるよ」と海の詩を約束する。兄がいなくなったあと、雫は父が母に話す言葉を聞いてしまう。
「なぜよりによって、出来の悪い方が残ったんだ」(雫の父)
兄と同じ歳になったから、雫はこの海へ詩を聴きに来たのだった。8月6日、雫はカモメに餌をやろうとして親指をくわえられ、オリエンテーリングではペアの男子に罵られて置き去りにされる。庭で泣き疲れて眠った雫は、瞳をのぞき込む善博に「私の目…嫌いだから…見ないで…」と言い、詩はもう聞こえない、「兄さんを奪った海なんて…嫌い」とつぶやいた。善博は、兄との約束はどうするのかと問いかけ、夜9時に東の砂浜へ来るよう雫に約束させる。
その夜の砂浜では、ウミガメの子が一斉に孵り、海へ還っていった。7年前に深景が投げかけた、なぜ厳しい海へ還っていくのかという問いに、善博は「それは、約束だからなんだよ」と答える。雫は子ガメに、兄への伝言を託した。
眠りについた善博は、7年前の最後の夜を夢に見る。隠し事を問い詰められた深景は、「私ね、死ぬの」と打ち明けた。骨の悪性腫瘍が肺に転移していた。「お医者様には、あと3ヶ月間持ちこたえられたら、いい方だと言われたわ。…3ヶ月前にね」。絵を描く旅に出たのも、残された時間が少ないと知ったからだった。翌朝のバス停で、深景は「ありがとう、生きる勇気をくれて」と言い、お礼の気持ちだと善博に口づけして「この続きは、また今度にね」と微笑んだ。病気を治して必ず戻ってくると誓う深景と、善博は「来年の夏、必ずまたこの海で会おう」と約束する。善博の手には「今度また会ったときに、私に返してね」と預けられた絵が残った。翌年の夏、深景は来なかった。
8月7日は、7年前に深景と別れた朝と同じ日付だった。岬で雫は、詩が「聞こえる」と言って兄に別れを告げる。善博に手を引かれて初めて海に入り、転んで口に入った海水を「涙の味が…します…」「でも…嫌いな味じゃ…ありません…」と言って、初めて心から笑った。夕方、雫は深景の代わりに「ありがとう、会いに来てくれて」「約束…守ってくれて、ありがとう…」と言う。「み…かげ…さん?」と問う善博に、雫は小さくうなずいた。ここにいるのは雫だと分かっていながら、善博は「深景さん」と呼んで雫を抱きしめ、深景をもっと近くに感じたいあまり、雫の同意もないまま体に触れてしまう。我に返って手を離そうとする善博を、雫は「いいです…」と止めた。自分は雫の恋人でも何でもないのに、と戸惑う善博に、雫は「添乗員さんも…遠くを…見ていたから…」「私と同じだったから…」と答える。
「だから今は…私を…その人だと思ってください」(雫)
人との触れ合いを避けてきた雫の身体は、震えていた。夕暮れの浜で、二人は結ばれる。善博は、別れ際の深景との約束『この続きは、また今度に』を、雫という女の子の姿を借りて果たそうとしたのだと振り返る。
最後の夜の花火大会で、善博は深景の絵を雫に「預ける」。雫はいつか必ず返すと約束した。そのとき、兄の声が雫に届く。「海の詩…あれはお前のために詠った詩なんだ」「お前はな、ひとりじゃないんだ」「いつでも海に来い」「もう、泣くなよ」。
翌年の夏、大学生になって泳ぎ始めた雫と、善博は駅で再会する。目印にとリボンを着けてきた雫と、二人は初めて深景の墓に参った。7年近く、善博は墓の前に立つのを避けてきた。深景の死を認めてしまうようで怖かったからだ。雫は「人はいつか、心の中でも死んだ人とは別れなくてはならないんですね」と言う。
「さようなら、深景さん」(善博)
陽炎の向こうに、善博は「…さようなら、善博くん」と微笑む深景の姿を見たような気がした。あれは夏の陽炎が見せた幻だったのだろうか、と思いながら。雫の章は、深景が病で亡くなっていたことをはっきりと示す。ただし、いつ、どのように亡くなったのかは語られない。
奈緒の章 — 想い出は海に返す
森沢奈緒は、ブラスバンド部でフルートを吹いていた生徒。几帳面で謝りがちだが、「ふっふっふっ、森沢は七色の声の持ち主なのです」とおどける茶目っ気もある。去年もこのサマースクールに来ていて、水泳の授業中に足をつって溺れかけたという。先輩の伊藤は何かと奈緒にかまい、善博をじろじろ見る。山頂の「特等席」で、奈緒は自分にも「いろんなことを教えてくれた人」がいたこと、それがもう想い出なのかを確かめにこの海へ来たことを漏らす。「もう…想い出、ですよね?」
寮の裏では、管理人が春先に保護したカモメが、翼の傷は治ったのに飛ぶのを怖がっていた。奈緒はそのカモメを「ジョナサン」と名づけ、「どこにも飛んで行かずに、ずーっとここにいれば…苦しい思いをすることもないんだよ」と語りかける。「カモメは、冬の渡り鳥」と聞いた善博は、なぜか心をかき乱された。その夜、善博は奈緒に額縁の絵を見せ、7年前に深景と水切りの石を探して賭けをし、負けて絵の名前を決める「宿題」を出されたことを思い出す。停電の廊下の暗がりで、奈緒は不意に善博に口づけし、明かりがつくと「これで…忘れられるかな」と言い残して走り去った。
夢に映ったのは、1年前の奈緒だった。小学生のときに近所へ越してきたセンパイを追って、奈緒はフルートを始め、東陽学園に進んだ。センパイは交換留学生に選ばれ、一流の演奏家を目指してウィーンへ発つ。笑顔で見送ったその夕方、誰もいない家のテレビが速報を流していた。『乗客…名簿……』『大使館に……確認された……お名前は……』。奈緒はそこで凍りつく。
8月6日、伊藤は奈緒をマネージャーに誘い、善博に「もう森沢さんに構わないでくれよな」と迫る。昼寝をする善博のポケットから絵を取り出して眺めた奈緒は、「きっと松永さんも…私と同じなんだ」とつぶやいた。砂浜で手を振る奈緒の姿に、善博は自分が奈緒を恋人として見ていたことに気づき、深景への想いを裏切ってしまったと動揺する。岬でよみがえるのは、絵が仕上がった日の深景の言葉だった。「この絵は、私と善博くんのふたりで描いた絵なの」。
深夜2時、差出人のない手紙に呼ばれてラウンジへ行くと、泣いていた奈緒が外へ走り出ていく。卓上の寄せ書きノートには、奈緒とセンパイの写真が挟まっていた。西の砂浜で、善博は腰まで夜の海に浸かったまま動かない奈緒を見つけ、冷えきった体を背負って寮へ連れ帰る。「私は…忘れたいのに…この海は許してくれない…。去年とちっとも…変わってない…」。棘だらけの想い出を抱えて生きるのはもう嫌だと泣き、忘れさせてほしいとすがる奈緒の願いに、善博は「僕には、今もまだ好きな人がいるんだ…」と応じなかった。
この夜には、善博が奈緒の願いを受け入れてしまう展開もある。浴室で関係を持ったあと、奈緒は善博の口づけを拒んで顔を背け、冷たい涙を流す。善博は、一時の欲に流されて「奈緒ちゃんの虚ろな心につけ込んだに過ぎない」と悟り、「取り返しのつかないことをしてしまったんだ」と思い知る。この展開では、奈緒の章はここから先へ進まない。
善博に断られた奈緒は、やがて落ち着き、星空の下で過去を語る。この夏こそ忘れようと来たのに、海が何も変わっていなかったこと。善博と過ごして変われそうになるほど、センパイを裏切るようで自分が許せなくなったこと。「人が死んだら、空のお星様になるとか…」「でもあれって嘘です」。善博は7年前に深景と交わした星空の話を思い出し、「いつか変わるんだよ、この星空さえも…。どんなに変わらないように見える星空でも、100万年後には変わってしまうんだ」「だから、奈緒ちゃんも変わったっていいんだよ」と言った。「私…変わっても…よかったんですね…」と奈緒は泣く。
その夜の夢で、善博は7年前の最後の夜を見る。深景の声は、咳き込んだあとのように掠れていた。翌朝、深景は旅行カバンごと姿を消し、置き手紙と額縁が残されていた。手紙には「また新たな旅に出ます」とあった。
「たとえ私がいなくなっても、私は海で待っています。だから、いつか会いに来て欲しい。それまでこの絵は、善博くんに預けておきます。絵の名前が決まったら、返しに来てください」(深景の置き手紙)
最終日、奈緒の励ましで、ジョナサンはついに空へ飛び立つ。善博はセンパイの写真を「彼からの、遅れてきた手紙」として奈緒に渡した。裏の言葉を読んだ奈緒は笑い、「でも、もう遅いですよーだ」と写真を破って海に撒く。「想い出は…海に返すよ…」。センパイと「いつかまた、ふたりで一緒にここに来よう」と約束した岩陰で、奈緒は「私じゃだめですか?私が松永さんの特別な人にはなれませんか?」「私と一緒に、想い出を乗り越えていきましょう」と想いを伝え、二人は恋人になる。その岩陰で、二人は結ばれた。夜の花火大会で、奈緒はブラバンを続け、来年留学して「彼の夢の続き」を自分が受け継ぐと決めた。「私が留学から戻ってくるまで…それまで、待っててくれますか?」に、善博は「待ってるよ」と答える。条件はひとつ、「遅れてきた手紙」なんて出さないこと。
帰る朝、善博は岬で「俺…この絵の名前、決めたよ」と海に語りかける。絵を海へ返そうと額縁から取り出すと、その裏に2枚目の手紙があった。
「おそらく、善博くんがこの手紙を読んでいる頃には、私はこの世にはいないでしょう。ずっと隠していてごめんなさい」(深景の2枚目の手紙)
深景は別れのときにはもう自分の死を知っていて、それを隠して去ったのだった。「俺はすべてを悟った。深景さんの現在も、本当の想いも…。」善博は海に向かって「深景さん、好きだ!!本当に、好きだった!!」と叫び、波間に『ありがとう』を聞く。置き手紙の「私は海で待っています」を、想い出を海に返すことだと受け取った善博は、絵を海へ返す。「じゃあ、深景さん。想い出、返すよ。」そして『さようなら、夏の幻……』。奈緒の章の善博は、別れのとき深景の病を知らず、最後の朝に手紙で初めて真相を知る。
つぐみの章 — 偽りの想い出
関西弁で話す1年生の津賀島つぐみは、生徒を撮った写真を1枚200円で売り、山登りでは虫よけを売って荷物持ちまで請け負う「商売人」。階段でぶつかった善博には、慰謝料10万円を約束させた。そのくせ自分が写真に撮られるのはひどく嫌がる。荷物持ちの途中で足首を捻ったつぐみを、善博は背負って山を下りた。「ウチ、誰かにおんぶなんてしてもらったん、これが初めてなんや…」。
雨上がり、もうバスの来ない廃線のバス停の堤防で、つぐみは10年ほど前にこの海辺の旅館に泊まり、竜宮城へ行こうとミドリガメを海に流したという「想い出」を話す。善博も7年前の恋を語るが、その結末は偽りだった。相手には婚約者がいて翌朝にはいなくなっていた、あるいは、ただフラれた、と。
夢に映るのは、幼いつぐみが遊園地で母に初めて甘えさせてもらった一日だった。母は「つぐみ、今日はたくさん甘えてもいいのよ」と、赤い風船を全部買い与える。その呟き「…これで、最後だからね」は、女の子の耳には届かない。
8月6日、善博はつぐみの隠し撮りのカメラを取り上げ、植物のスケッチの上手さを褒めて絵本作家を勧める。ところが、取り上げたそのカメラでつぐみを撮った途端、つぐみはカメラを海へ投げ、「添乗員さんの、アホ~~~~~~!!!!」と泣いて走り去った。夜に仲直りしたつぐみは、稼いだお金は1円残らず募金していると明かす。「ウチが欲しいもんは、お金じゃ買えへんし…」。由織からは、つぐみにせがまれて自分の想い出話をしたと聞かされる。この夜、善博は7年前に宿の庭で深景と花火をした夜を思い出していた。
8月7日、善博はつぐみの部屋で古いノートを見つける。中身は、人から聞いた想い出話の書き溜めだった。旅館の廃墟の庭で、つぐみは大きな月下美人を指して「来たときには、もう咲いとった」と言う。だがそれは、7年前に善博と深景が苗を植えた花で、つぼみはまだ閉じたままだった。ミドリガメの話も、本当は由織の子供の頃の想い出だった。嘘を暴かれたつぐみは崩れ落ちる。
「ウ、ウチの…ウチのたったひとつだけの想い出が、捨てられたことやなんて…」(つぐみ)
つぐみの母は、男に捨てられたことをつぐみのせいにして「お前さえ生まれてこなければ」と罵り、毎日のように殴り、蹴った。遊園地で優しかったのはその日だけで、母は「ここで待っているのよ」とつぐみをバス停に残し、雨の中いくら待っても迎えに来なかった。つぐみはそのあと「津賀島のうちの子」になる。胸には、赤ん坊のときに熱い天ぷら油を掛けられた火傷の痕が残っていた。「この痕がある限り…ウチには想い出作る資格なんてあらへんのや…。一生、嘘つきのままなんや…!」。「汚いやろ…こないな身体…」と言うつぐみに、善博は「僕が、愛してあげる。僕がつぐみちゃんのことを、愛してあげるよ」と応える。隠そうとする痕に口づけして、善博はその痕ごとつぐみを受け止めた。旅館の廃墟で、二人は結ばれる。
砂浜で、つぐみは初めて自分の写真を撮らせた。影踏みをしながら「今、ウチ、主役やな!」とはしゃぐつぐみに、善博は廃線のバス停で話した7年前の結末が嘘だったと明かす。人は辛いときほど自分を偽ろうとする。それこそが自分の「偽りの想い出」だった、と。
「僕も…そのことは知ってた。知ってたけど、彼女を止めることが出来なかったんだ…」(善博)
深景は重い病気で亡くなっていた。隣で彼女が痛みや苦しみと戦っていたかもしれないのに、気づきもしなかったと悔やむ善博に、つぐみは「添乗員さん、そんなことはあらへんよ…」「だってウチ、会えてよかったって思ってるもん」と返す。その言葉に、善博は深景の同じ言葉を重ねていた。
帰る朝、つぐみは慰謝料を含めた合計101,600円の請求書と、代金を「『想い出』」と書いた領収書を善博に渡す。二人は恋人にはならずに別れた。1週間後に届いた手紙で、つぐみはもう頼らず、この夏を「いい想い出」にすると告げる。7年後、妻と幼い娘の美佳を持つ父になった善博は、本屋で人魚の絵本をねだる美佳に付き合う。美佳と言葉を交わした女性は名乗らなかったが、それは絵本作家になったつぐみだった。美佳が選んだデビュー作『つきとにんぎょひめ』のあとがきには、こう書かれていた。
私が、この絵本作家の道を進むことになるきっかけを作ってくださった『添乗員さん』へ…/心からの、ありがとう。
つぐみの章の善博は、深景の死を知っていたと自分の口で認める。病名までは出てこない。
由織の章 — 青い風
天山荘のお手伝いの川奈由織は、寮ができた3年前から泊まり込みで働き、花壇でアスターを育て、管理人の息子ユウキの母親代わりもしている。22歳で、8月6日に23歳の誕生日を迎える。おっとりしていて、露草にもアサリにも「さん」を付けて呼ぶ。トランプを切るのが下手で、ジョーカーを引くとすぐ顔に出る。そんな由織が、善博の目にはどこか「いいとこのお嬢様」のように映る。8月5日、善博は由織に誘われて寮の外へ出かける。
二人を案内したのは、名乗らない少女だった。海を望む一面のコスモス畑で、少女は「これはみんな、わたしが育てたの」と言う。由織はコスモスの花言葉を「乙女のまごころ」と教えた。その夜、ユウ坊(ユウキ)がブレーカーを落として起こした停電で、怒る管理人から由織はユウ坊をかばう。管理人との酒席で、由織は「川奈のお嬢さん」と呼ばれるのをきっぱり断った。深夜、月夜の砂浜で、由織は子供の頃に竜宮城の乙姫に憧れてカメを待っていた話をし、二人は口づけを交わす。
その夜の夢で、善博は小学4年生の「ボク」になっていた。砂浜でカメを待つ幼い「由織お嬢様」に出会い、「お前のあだ名はゆうちゃんだな」と名づける。そのときボクが名乗った名前は、「その唇がいったい何という名を刻んだのか、僕にはもうわからなかった」と伏せられたままだ。
8月6日、由織の23歳の誕生日を、同じ日に7歳になったユウ坊と3人で祝う。由織は「お花は種を残しますから」と言い、岬では「もしもう一度、青い風が吹いたら…。そのときは、飛んでいけそうな、そんな気がするんです…」と語った。夜、善博は深景の海の絵を誕生日の贈り物として渡し、「僕は由織さんじゃなくちゃ、だめなんだ」と告げる。由織は絵を受け取った。善博は「由織さんを、心から好きだって言える自信がさ」と言い、その気持ちを確かめ、証明したいと由織を求める。ためらう由織は「最初は…キスからがいいです」と言い、誕生日の夜、二人は由織の部屋で初めて結ばれる。
その夜の夢で、ボクとゆうちゃんは「未来のボクたち」に宛てたたまて箱を、砂浜の端の松の根元に埋める。ゆうちゃんは花の種を、ボクは野球のボールを入れた。執事に連れられて帰っていくゆうちゃんは、「わたしは、この海でまっています」と言い残す。
8月7日、由織は管理人と出かけたまま夜まで戻らず、ユウ坊は「ゆおりは、おれのオヤジとケッコンするんだ」と言う。7年前に深景と泊まった旅館の廃屋で、善博は深景だと思った人影を追いかける。だがそれは少女だった。「くすくす…ねえ、だあれ、みかげさんって?」「でもホントは、かなしいんだよね」。砂を掘って過去を探しても何も出てこず、善博は「一度砂に埋めたものは、掘り起こしてはならない」と、今の想いを持ち続けると決めた。善博の独白は、深景が「結局は死神の花嫁になってしまった」と振り返っている。
夜、廃屋の庭には月下美人が咲いていた。7年前に善博と深景が植えた苗を、3年前にここで働き始めた由織が、枯れかけていたところから手入れして咲かせてきたのだった。深景を求めてしまったことを詫びる善博を、由織は責めない。
「知ってましたよ」(由織)
「大切なのは、今の気持ちです」「それに私たちが出会えたのも…松永さんがその方を愛されたからではありませんか?」。それでも、「僕と一緒に来て欲しい」という願いに、由織は首を振った。「想いはいつか花となって咲くんです」「松永さん、素敵な恋をありがとうございました」。別れの口づけをして、由織は去っていく。
帰る朝、由織はアスターの種を渡し、「アスターの花言葉は、『永遠の別離』です」と告げる。バスが出たあと、追いかけるよう勧める管理人に、由織は「松永さんはここへ来た。私はここにいた。…ただ、それだけのことだったんですから」と答え、管理人は「心にもないことを言うときには、もうちょっと、それらしい顔をするもんやで」と返した。1年後の夏、アスターを植えずにいた由織の前に、紅いアスターの花束を抱えた善博が現れる。紅のアスターの花言葉は「私の愛は、あなたよりも深い」。「やっと、青い風が吹いた…。私をこの海から連れていってくれる、青い風が…。」と由織は思う。善博の最後の言葉は「24回目の誕生日おめでとう、由織さん」だった。
由織の章では、深景の死ははっきりとは語られない。その代わり、二人で植えた月下美人、少女の育てたコスモス畑、廃屋で深景の名を問いかける少女が、7年前の夏の名残として善博の前に現れる。夢の「ボク」が善博自身なのかも、明言されないまま終わる。
深景の章 — 旧七夕
8月6日、7年前の夏を過ごした東の砂浜で、善博はあの夏の記憶をたどっている。けれど、その思い出には何かが足りない。6人の中でただ一人、現在の1週間に姿のない深景の章は、名乗らない少女、夢に現れる織姫、そして章ごとに語られ方の違った7年前の夏に、まとめて答えを出す最後の話になる。善博がずっと持ち歩いてきた額縁の絵と、少女の語る七夕のおとぎ話の結末も、この章にたどり着く。
7年前にこの海へ「ひとりで」来たと思い込んでいたさなか、善博は突然、深景を思い出す。自分の人生から、深景の存在そのものが消されていたような感覚だった。少女は見つめるだけで善博を動けなくし、「だめだよ、おもいだしちゃ」と告げる。心の深い海の底で、金色の紗の向こうにいる織姫が言う。糸を解くだけでは足りなかった。深景との運命の糸を断ち切れば、出会ったことそのものが消え、悲しみからも解き放たれる。「これはあなたのためなのよ」。善博は拒み、織機に手を掛けて糸を乱したところで意識を失った。
目を覚ますと、善博はサマースクール帰りの電車の中にいた。そこは、2か月前に深景と結婚した世界だった。深景は「私はここにいるわ。ずっとあなたの側にいる…」と微笑み、小さい頃の夢だった絵描きとお嫁さんが「ちゃんと叶ったもの…あなたのおかげで」と言う。二人はお盆休みの温泉旅行を予約し、その夜、夫婦として結ばれる。深景は「なんだか…初めてするみたい」と言った。けれど、テレビの「1年前の今日起こった」飛行機墜落事故の特集、どこかで聞いたような間違い電話、本屋で「パパ!」と呼びかけてくる女の子、雨の中でよみがえる雫の言葉と、善博は何度も既知感に襲われ、深景が消えてしまう不安に取りつかれていく。「あの想い出も、あなたの見ている夢…?」と深景は問う。
やがて善博は降りる駅が分からなくなり、自宅からは見知らぬ人が出てくる。それを受け入れた瞬間、世界は白い砂となって崩れ落ちた。善博は、深景との幸せを求めて「無限大に繰り返す、運命の連環」を巡っていたこと、それもまた夢だったことを悟り、「あの夏から始まる、悲しみの中へ」帰っていく。
戻った先は7年前の夏だった。深景の病を知った善博は、今度は別れずに、最後まで側にいることを選ぶ。数日後、深景は砂浜で血を吐いて倒れた。救急車を呼ぼうとする宿の人を止め、二人は「最期の時まで、ふたりで一緒にいさせて欲しい」と宿の部屋に残る。目が見えなくなり、昼と夜の区別もつかなくなった深景は、痛む手で描き上げた海の絵を「私が生きていたという証」として善博に託し、「泣いてる人がいたら…側にいてあげてね」と言った。
「私は…海で待ってる…。海で…あなたが来るのを…待っているから…」(深景)
「…キス、して」と求めた深景は、最後の口づけの中で息を引き取る。人生が、繰り返す悲しみに還る物語だと言うなら。そう思う善博は、ふたたび織姫の前に立ち、「もう、あんな辛い想いはしたくない」と、糸を切ることに同意した。織姫は「目が覚めれば、何かを忘れた…ということさえも、忘れているはずよ。もちろん…悲しみもね」と告げ、もう夢に現れることもないと別れを言う。糸が切られたあと、深景の声が独白する。自分の死に善博を付き合わせた償いとして、「あなたに近い運命を持った人たち」との出会いの運命を織り合わせ、「私ではない、本当の運命の人」を見つけてほしかった、と。序章の夢で織姫が「あなたに近い運命を持った、この人の糸を…」と言い、夢の声が「あなたと最も近い運命を持っている人」の過去を見せていたことと、この独白は言葉が重なる。
何も覚えていない善博は、岬の東の砂浜で目を覚ます。その夜、少女は「これで、さいごなんだもの…」と最後の線香花火を分け合い、散っていく火花に似た花を思い出させようとするが、善博には思い出せない。少女は七夕のおとぎ話の続きを語った。天へ帰った織姫は、何年経っても月の舟で降りては来なかった。「よしひろくんは…再会できたとおもう?」と問われ、善博は「会えなかったんじゃないかな」と答える。少女は「じゃあね、さようなら…よしひろくん」と去っていった。
8月7日。由織は、少女がいたことを覚えていない。奈緒は「託された想い…それを果たしていくのは、いちばんたくさん、その想いを受け取った人の務めだから…」と言い、つぐみは「きっともうすぐ、添乗員さんにも届くから…」と言う。そして雫が、少女の海色の風鈴を鳴らしながら、海の絵の額縁を差し出した。「約束ですから…お返しします…」「詩が…届きましたから」。善博はすべてを思い出す。止まっていた日めくりをめくると、8月7日の数字の下に「旧七夕」とあった。善博は裸足のまま砂浜へ走る。
深夜の砂浜で、善博は少女に「…深景さん」と呼びかけた。少女は深景の声で、七夕のおとぎ話の結末を語る。7年目の七夕に、織姫は月の舟に乗ってやって来た。天の国の1年は、地上での7年だったのだ。
「だけど本当は言いたかった。私が深景なんだって、言ってしまいたかった…」(深景)
名乗らない少女は、深景だった。たとえ仮初めの命でもいい、ただ側にいられればいい。そう思って、深景は少女の姿で善博のそばにいた。糸が断ち切られた以上、善博が思い出すはずはない。そう知りながら、それでも待っていた。「せっかく、忘れさせてあげたのに…。みんな無駄になってしまったじゃない」。善博は「それが、僕の選んだ運命だから」と答え、「帰っておいで…」「おかえり、深景さん」と迎える。「そうね…私、子供の姿でいるうちに…心まで子供になっちゃったみたい…」と深景は笑い、「時間が…止まってしまえばいいのに…」とつぶやく。この身体は借り物だから、海に返さなくちゃ。深景はそう言って、海へ帰っていった。
翌朝、コスモス畑は枯れ果てていた。善博は芥子粒のような種を取り、いつか海の見える場所に一面のコスモス畑を作ろうと決める。「また今度な…深景さん。…また、7年後くらいに」。物語は、届くことのない深景の手紙で閉じられる。
「死んでから、初めてわかるのね。『想い』というもの」……「私を好きになってくれた『あなた』へ…ありったけの『ありがとう』」(深景の手紙)
6つの章と7年前の夏
本作では、7年前の別れと、その後の深景がどうなったのかが、章ごとに違う形で語られる。どれか一つが本当で、ほかは誤りだという書き方はされていない。下の表は、それぞれの章の後半で、善博が7年前の夏について知ること、見ることを並べたもの。どの章にも名乗らない少女や夢の声が出てきて、その答えはすべて深景の章に集まっていく。
| 章 | 7年前の別れ | 深景の病と死 | 少女・夢の声とのかかわり |
|---|---|---|---|
| ちなつの章 | 深景は「もう会えない」と告げ、抱いてほしいという求めを善博に断られる。また会う約束をさせられた翌朝、置き手紙と絵を残して消える。手紙は絵を善博に譲ると書く | 一言も触れられない | 少女と線香花火をし、7年前に宿の庭で深景と花火をした夜を思い出す |
| 雫の章 | 最後の夜に病を打ち明けられ、翌朝のバス停で「来年の夏」の再会を約束する。絵は預かる。翌年、深景は来なかった | 骨の悪性腫瘍が肺に転移していた。翌年の夏、雫と深景の墓に参る | 雫の兄の声が雫に届く。墓の前で、陽炎の中に微笑む深景を見た気がする |
| 奈緒の章 | 声の掠れた最後の夜の翌朝、旅行カバンごと消える。置き手紙は「絵の名前が決まったら、返しに来てください」 | 帰る朝、絵の裏の2枚目の手紙で、深景が死を知りながら隠して去ったと知る | 波間に深景の『ありがとう』を聞き、絵を海へ返す |
| つぐみの章 | 善博はつぐみに偽りの結末(婚約者がいた、フラれた)を話していた | 重い病気で亡くなったこと、知っていて止められなかったことを善博が明かす | つぐみの「会えてよかった」に、深景の同じ言葉が重なる |
| 由織の章 | 語られない。二人で植えた月下美人を、由織が咲かせている | 善博の独白に「死神の花嫁」とあるだけで、はっきりとは語られない | 少女がコスモス畑へ案内し、廃屋で「だあれ、みかげさんって?」と問う |
| 深景の章 | 別れずに最後まで側にいることを選び、宿の部屋で深景を看取る | 喀血して倒れ、失明したのち息を引き取る。織姫が運命の糸を切り、善博の記憶から深景が消える | 少女の正体は深景。旧七夕の夜に善博に迎えられ、「この身体は借り物」と海へ帰る |
バッドエンド バッドエンド
6人それぞれの結末のほかに、バッドエンドが2つある。一つは、誰とも恋人にならないまま1週間の滞在を終え、海辺を去っていく結末。もう一つは、ヒロインとの場面が描かれず、名乗らない声の独白だけで終わる結末である。どちらも少女や夢の声の言葉で締めくくられ、「またここへ来る」ことを予感させて終わる。
誰とも恋人にならずに海辺を去る結末。滞在の最終日の朝、善博は管理人と由織に見送られて天山荘を発つ。「もしいずれ機会がありましたら、ぜひまたいらしてくださいね」。そこへ少女が現れた。最後にもう一度名前を訊く善博に、少女は「くすくす…だーめ」と笑い、「やさしい人ほど、つらい思いもするからね…」「だいじょうぶ、きっとまたここに来るから」と言い残して砂浜へ消えていく。
でもいつかきっと、また訪れることがある。/そんな不思議な予感を覚えながら、ひと夏を過ごしたこの海辺をあとにした…。
声だけが語る結末。ヒロインとの別れの場面は描かれず、話者の名前のない声の独白だけが続く。「運命の人は見つけたのに…。運命の糸を結びつけてあげたのに…。想いが結び合わなければ、それは絆とはならない。」縦糸と横糸が交わるのは一度きりだという、序章の夢の話を受けるように、声は「一度交わったきり、すれ違いになってしまったのね」と言い、「運命の彼岸の先に、またあなたはここへ来るわ」と告げる。いつまでもここで機を織り続ける、とも。
あなたの心の中から、悲しみが消えるそのときまで、私はずっと待っているから…。
この声が織姫なのか、深景なのか、それとも別の誰かなのかは、作中で明確な答えは示されていない。
エンディング一覧
エンディングに作中での名前は付いていない。ここでは、誰の章の結末かで呼ぶ。
| 種別 | エンディング | 結末の概要 |
|---|---|---|
| 個別 | ちなつの結末 | 出発の朝、ちなつは無言のまま。数年後の夏、移り住んだ街で偶然に再会し、約束を守れなかったと泣くちなつに、善博は「もう我慢しなくてもいいよ」と応える |
| 個別 | 雫の結末 | 翌年の夏、大学生になった雫と再会し、二人で初めて深景の墓に参る。「さようなら、深景さん」。陽炎の中に微笑む深景を見た気がする |
| 個別 | 奈緒の結末 | 奈緒は来年の留学を決め、善博は「待ってるよ」と約束する。帰る朝、絵の裏の2枚目の手紙で深景の真意を知り、絵を海へ返す。『さようなら、夏の幻……』 |
| 個別 | つぐみの結末 | 恋人にはならず、「『想い出』」の領収書を受け取って別れる。7年後、父になった善博の前に絵本作家になったつぐみが名乗らずに現れ、デビュー作のあとがきで「添乗員さん」に感謝を記す |
| 個別 | 由織の結末 | 由織は「永遠の別離」の花言葉とともにアスターの種を渡して別れる。1年後の夏、紅いアスターの花束を持った善博が戻り、「24回目の誕生日おめでとう、由織さん」 |
| 個別 | 深景の結末 | 旧七夕の深夜、少女の姿の深景を「おかえり、深景さん」と迎え、深景は海へ帰る。翌朝、善博は枯れたコスモス畑で種を取る。最後は深景の手紙 |
| バッドエンド | 誰とも恋人にならずに海辺を去る結末 | 最終日の朝に天山荘を発つ。少女は名前を明かさず「だいじょうぶ、きっとまたここに来るから」と砂浜へ消える |
| バッドエンド | 声だけが語る結末 | 話者の名前のない声の独白のみ。「一度交わったきり、すれ違いになってしまったのね」「私はずっと待っているから…」 |
作中で明かされないこと
以下は作中で明確な答えは示されていない。
- 7年前、本当はどう別れたのか。置き手紙を残して消える、バス停で再会を約束する、最後まで側にいて看取る、と章ごとに別れ方が違う。どれが実際に起きたことなのかは示されない
- 織姫と深景は同じ存在なのか。深景は出会いの運命を織り合わせたと独白し、少女の姿で「せっかく、忘れさせてあげたのに」とも言う。けれど織姫は深景とは別の声と話し方で語り、糸を切る場面では二人が同時にいる
- ほかの章の少女は何者なのか。少女が深景だと分かるのは深景の章だけで、ほかの章では名乗らないまま終わる。7年前に深景が話した海童女ちゃんの言い伝えとの関係も語られない
- 夢の声の主。ヒロインの過去へ導く声と、声だけが語る結末の声は名乗らず、織姫と同じなのかも分からない
- この夏は繰り返されてきたのか。最初の夜の織姫の「お別れを言いに来てくれたのね」「ちょうど今から、解くところだったのよ」や、少女の「どうして来たの、もう来なくてもよかったのに」は、すでに何かを経たあとのような言い方で、深景の章の「運命の連環」とも語が重なる。ただし説明はされない
- 奈緒のセンパイに何が起きたのか。テレビの速報の『乗客…名簿』『大使館に……確認された』という言葉と、奈緒の「海の彼方へ」行ってしまったという言い方があるだけ。深景の章のテレビが伝える1年前の飛行機墜落事故と同じものなのかも、作中では結びつけられない
- 雫の兄の最期。「人魚に恋をして…行ってしまった…」「兄さんを奪った海」と語られるだけで、何が起きたのかは描かれない
- 由織の夢の「ボク」は善博なのか。名乗った名前は伏せられ、埋めたたまて箱が掘り出される場面も無い。由織が川奈の家を出た理由も語られない
- 奈緒の章の二つの手紙。センパイが写真の裏に残した言葉の文面と、深夜2時に善博をラウンジへ呼び出した手紙の差出人は明かされない