大和仁のレビュー — 月姫

大和仁
大和仁
吸血鬼伝承を本棚から引っ張り出した男
9.0/10
9.0 / 10

「真祖」「死徒」「死徒二十七祖」「埋葬機関」——独自語彙の体系がここまで完成された同人ゲームを、ぼくは他に知らない。

2000年12月、同人サークルTYPE-MOONが頒布した一本。シナリオは奈須きのこ、原画は武内崇。直死の魔眼という眼の能力を主軸に、真祖(しんそ)と死徒(しと)という独自体系の吸血鬼設定が展開される。ぼくがプレイして驚いたのは、ヨーロッパ吸血鬼伝承・カトリック教会の聖務階級・東欧のヴァンパイア民俗学に関する基礎的な参照が、独自の語彙体系の中にきちんと吸収されていたことだ。「真祖と死徒」「死徒二十七祖」「埋葬機関」——これらは借用ではない。借用元の知識を踏まえた上で奈須きのこ独自の体系として再構築されている。1997年のMOON.のレビューで「調べた跡が見える」と書いたが、月姫はそれをはるかに超える。「自前の体系を持っている」レベルだ。9.0は「教養的根拠と独自性が両立している希少な一本」という評点だ。

スコア詳細

設定の整合性 9
世界の奥行き 10
設定の独自性 9
テーマ・メッセージ性 8
文章力 8
歴史的意義 9

伝奇ビジュアルノベル——この看板を出したからには、調べてあるはずだ

「伝奇ビジュアルノベル」という公式ジャンル表記を見て、ぼくがまず思ったのは「どこまで調べて作ったんだろう」だった。

月姫は2000年12月、同人サークルTYPE-MOONがコミックマーケット59で頒布した一本。シナリオを担当したのは奈須きのこ、原画は武内崇。同年8月のコミケ58で「半月版」(アルクェイド・シエル2ルートのみ)が頒布され、12月の完全版で残る3ルートが解禁された——という発売史を持つ作品だ。ぼくがプレイしたのは完全版のWindows版だ。

主人公の遠野志貴は17歳の高校2年生。9歳のときに事故で胸に重傷を負い、その後遺症として「直死の魔眼」という眼の能力を獲得する。世界中のあらゆる物体に「線」が見え、それをナイフでなぞれば何でも断てるという能力だ。日常を取り戻すために、八年前に出会った「先生」(蒼崎青子)から授かった「魔眼殺し」の眼鏡で能力を抑制している。物語は、その志貴が八年ぶりに実家・遠野家に戻るところから動き出す。

共通ルートを抜けると5ヒロイン分のルートに分岐する。アルクェイド(真祖の吸血鬼)、シエル(教会代行者)、遠野秋葉(志貴の妹)、翡翠琥珀(屋敷の双子の侍女)。各ルートにTRUE ENDとGOOD ENDが用意されている(琥珀ルートはTRUEのみ)。

ぼくがこの作品を読む軸は一つだ。「伝奇ビジュアルノベル」という看板を出した作者が、伝奇ジャンルの基本——吸血鬼伝承、教会の聖務階級、眼の概念史、転生説、東欧民俗学——をどこまで踏まえているか。そしてそれを物語にどう組み込んでいるか。

真祖と死徒——吸血鬼伝承の参照と独自再構築

月姫の核心設定の一つが、吸血鬼の二段階種族システムだ。

本作では吸血鬼が「真祖(しんそ)」と「死徒(しと)」の二種に分けられる。真祖は吸血鬼の頂点で、自然の摂理として生まれた存在。死徒は元々は人間だったものが吸血鬼化した存在——いわば後天的な吸血鬼。アルクェイドが真祖、街に巣食う敵が死徒という構図だ。

調べてみると、この区別はヨーロッパの吸血鬼伝承研究で実際に議論されている類型と対応している。中世東欧の民間伝承には「生まれながらの吸血鬼/変質した吸血鬼」という分類が存在する。さらに上位の「血族の長としてのドラキュラ的存在/その血を受けて変質した者たち」という階層構造は、ブラム・ストーカー以降の吸血鬼小説でも繰り返し変奏されてきた構造だ。

面白いのは、奈須きのこさんがこの区別を「真祖/死徒」という独自の漢語に置き換えていることだ。借用ではない、奈須きのこ独自の語彙体系の中に吸収されている。「ヴァンパイア」「ノスフェラトゥ」「ドラキュラ」といった既存のカタカナ語を一切使わず、自前の漢語で吸血鬼の階層を設計している。これは表面的な再ネーミングではなく、概念の構造そのものを再構築する作業だ。「真祖」という語の選び方に「祖(おや)」の概念が入っている、「死徒」という語の選び方に「徒(弟子・後発者)」の意味が入っている——この語彙設計の精度が高い。

さらに「死徒二十七祖(しとにじゅうしちそ)」という設定がある。死徒の中でも最上位の二十七人を指す。「現存する死徒は二十七祖じゃなくて二十八でしょう。貴方たちは『蛇』を同胞と認めていないの?」というアルクの台詞で、死徒の中の派閥構造まで示唆される。「二十七」という数字の選択にも意味がありそうだ——タロットの大アルカナ22枚+小アルカナの構成に近い暗示があるかもしれない。これは推測の域を出ないが、奈須きのこさんの数字選択は適当ではないことが他の場面(後述の「十七」)から見えるので、検討する価値がある。

1997年のMOON.のレビューで「FARGOのClass制度はカルト研究の論理を踏まえている」と書いた。月姫の真祖/死徒の体系は、それを超える完成度だ。借用元の知識を踏まえた上で、自前の体系として完全に再構築されている。これがぼくが設定の独自性に9をつけた根拠だ。

教会・代行者・埋葬機関——カトリック教会論の構造的参照

月姫の世界には、もう一つの組織体系がある。死徒を狩る教会組織だ。

シエル先輩の正体は、教会から派遣された代行者だ。武器は黒鍵と呼ばれる短刀。さらに上位組織として埋葬機関(まいそうきかん)という名前も登場する。本部は倫敦(ロンドン)に関連する場所として言及される。

これも吸血鬼伝承研究の知識が下敷きにある設定だ。中世以降のヨーロッパでは、カトリック教会が異端審問・悪霊払い・吸血鬼退治の役割を担う構造が実際に存在した。教会が「神の代理人」として悪魔・異端・吸血鬼に対処する論理は、神学的にも歴史的にも根拠がある。月姫の「代行者」という言葉の選び方は、この「神の代理人=代行者(ヴィカリウス)」という神学概念をきちんと踏まえている。

「埋葬機関」という命名も巧い。死者を埋葬するという物理的行為と、死徒(=不死者)を「正しく死なせて埋葬する」という宗教的行為を一語に重ねている。教会内の特殊機関という設定も、カトリック教会内のサブ組織(イエズス会、ドミニコ会、聖務聖省など)の歴史的構造と整合する。

「黒鍵」という武器名も、神学的な含意がある。新約聖書ペテロの「天国の鍵」のモチーフを「黒い鍵=地獄/死の門を開く鍵」として反転させた可能性がある。教会の代行者が「鍵」を武器とする発想は、信仰の持つ「束縛と解放」の二重性を踏まえている。

奈須きのこさんがどこまで意識的にこれらの神学的含意を埋め込んでいるかは、本人に聞かなければわからない。でも結果として、教会組織の設定が偶然にカトリック教会論の構造と整合している、というレベルではない。「真祖/死徒」と「教会/代行者/埋葬機関」が対の構造になっていて、両方が独自の漢語で命名され、両方が伝承・神学の知識を下敷きにしている。これは設計の意図性を示している。

直死の魔眼——「眼」と「死」の哲学的接続

主人公の能力「直死の魔眼」も、ぼくにとって面白い設定だ。

世界中のあらゆる物体に「線」が見えて、それをなぞればモノを断つことができる。「『モノ』にはね、壊れやすい個所というものがあるの。いつか壊れるわたしたちは、壊れるが故に完全じゃない。君の目は、そういった『モノ』の末路……言い代えれば未来を視てしまっているんでしょう」——蒼崎青子が9歳の志貴に告げる説明だ。

これ、哲学的に整理するとアリストテレスの「四原因説」の終局因(テロス)の議論と接続する。すべての存在は「目的(終わり)」に向かって運動するという発想だ。月姫の「線」は「モノが向かっている死=終局」を可視化したものとして読める。さらに古代ギリシアのストア派の「運命論」、ベルクソンの「持続」概念、ハイデガーの「死へと向かう存在」——「すべてのものは死に向かっている」という哲学的命題は、西洋哲学の中で繰り返し論じられてきた。月姫の直死の魔眼は、その哲学的命題を「眼で見える線」というSF的具体物に変換した発想だ。

「眼」という器官に特殊な能力を結びつける発想自体は、神話・伝承の中で古くから存在する。ギリシャ神話のメデューサの眼(見たものを石に変える)、邪眼(イービル・アイ)の伝承、仏教の「天眼通」(てんげんつう)。月姫の直死の魔眼は、これらの「眼の能力」モチーフの系譜の中に位置づけられる。借用ではない。歴史的な系譜の中に、新しい一本を加えた、と読むべきだ。

そして「魔眼殺し」という眼鏡——魔眼を抑える道具の存在もうまく機能している。能力者が能力を「持っている」だけではなく、能力を「制御する/隠す」必要がある、という設定は、西洋の魔術師伝承でも東洋の道士伝承でも繰り返し現れる。月姫の場合、その制御装置を「眼鏡」というありふれた物に落とし込むことで、能力者の日常生活を可能にしている。日常と異能の橋渡しの設計として、これは巧い。

調べてみると、奈須きのこさんが後のFateシリーズで「魔眼」という概念を体系的に展開していくのは、月姫の段階で既にこの設定の哲学的射程を意識していたからだとぼくは読んでいる。月姫の直死の魔眼は、後の「魔眼の系統樹」設定の最初の一例だ。

「作中で語られない設定の量」——世界の奥行きに10をつけた理由

月姫を読んでいて気付くのは、作中で説明される情報量に対して、明らかに過剰な設定が背後に存在することだ。

例を挙げる。「死徒二十七祖」という言葉だけがあって、二十七人全員の名前や来歴は作中で語られない(ネロ・カオス一人だけが登場する)。「七夜」という血筋の名前が出てくるが、その全体像は描かれない。「蒼崎家」「蒼崎の姉貴」が言及されるが、姉本人は登場しない。「埋葬機関」の組織図も詳しくは語られない。「真祖と死徒の関係性の起源」も語られない。「混血」の遺伝メカニズムの詳細も語られない。

普通の作品なら「設定が説明されていない=設計が雑」と読まれる場合がある。月姫はそうではない。これらの未説明の設定は、本編の中で「触れられている」「示唆されている」けれど詳細は描かれない、という形で配置されている。読み手に「この世界にはまだ語られていない奥行きがある」と感じさせるための設計だ。

これは小説技法でいう「氷山の一角」効果——ヘミングウェイが提唱した、書かれていない部分が作品の重さを支える書き方——に近い。月姫の場合、5ルート分の本編で見せている世界は、奈須きのこさんが構築している世界全体の一部に過ぎない。残りの大部分は背景に隠れている。

これがどれくらい意図的だったかは、後のFate/stay nightや、奈須きのこさんの他作品(魔法使いの夜、空の境界)で明らかになる。これらの作品群の中で「TYPE-MOON世界」と呼ばれる単一の世界観が再構築され、月姫で背景に隠れていた設定群が他作品で前景に出てくる構造になっている。月姫の段階で既に、この多作品にまたがる世界の構築計画が始まっていた、ということだ。

世界の奥行きに10をつけた理由はこれだ。月姫の世界は、月姫一作で完結する世界ではない。奈須きのこさんが20年以上かけて広げ続けている世界の、最初の窓だ。1作品の中で完結する設定の整合性ではなく、複数作品にまたがって展開される世界の最初の一本として、月姫は別格の奥行きを持っている。これは2000年の段階で既に内包されていた設計だ。

文章とテーマ——奈須きのこの「声」と「問い」

設定だけでなく、文章とテーマについても。

文章力に8をつけた。2000年の同人作品としては突出している。奈須きのこさんの文体——独自造語、難読語、内省的な独白の畳み掛け、句読点の特異な打ち方——は好みが分かれる文体だ。読みづらい場面もある。けれど、核心的な場面のテキストの密度は別格だ。ぼくが特に注目するのは、句読点の打ち方一つで内面の崩壊を表現する技法だ。「胸が、焼け、る」のような表現は、奈須きのこさんが日本語の文法構造を独自に操作することで生み出している効果で、後続の伝奇ノベル作家たちが繰り返し模倣することになる。

テーマには8。月姫の主題は「死」「混血」「転生」「眼」「血」「双子」「待つこと」——複数の主題が同時に走っている。一作の中でこれだけの主題を扱うのは過剰にも見えるが、5ルートに分散することで各主題が消化されている。「死とは何か」「血とは何か」「家族とは何か」——伝奇という外形を取りながら、本質的な問いは哲学的・人間的なものだ。

テーマに9をつけなかった理由は、5ルート全体での主題の収束が一点に集まりきらないからだ。アルクルートとシエルルートが「死徒・真祖・ロアの戦い」という伝奇主題を中心に置く一方、秋葉・翡翠・琥珀ルートは「家族と血の継承」という別主題に重心が移る。これは多角的でもあるが、一つの強いメッセージとして全体が収束する形ではない。それは月姫の特性であって欠点ではないが、テーマの一点突破力という観点では9に届かない。

Hシーンの評価については、物語の核心と連動しているシーンが複数ある。各ヒロインのHシーンが、そのルートの感情の核心と直接接続している設計になっている。詳細はネタバレ版で論じた。

9.0の根拠——教養と独自性が両立している希少な一本

「教養が作品を豊かにしているか」——それがぼくの評価軸だ。

月姫は、その基準で別格の評価ができる作品だった。吸血鬼伝承の研究、カトリック教会論、眼の概念史、神話的な数字の使い方——ぼくが知っている限りの基礎知識が、作品の中に「借用」ではなく「再構築」の形で吸収されている。1997年のMOON.のレビューで「調べた跡が見える」と書いたが、月姫はそれを超える。月姫は「調べた跡」ではなく「自前の体系を持っている」。借用元の知識を踏まえた上で、奈須きのこ独自の語彙体系として完全に再構築されている。

9.0は「教養的根拠と独自性が両立している」という評点だ。10には届かない。理由は、テーマの一点突破力が5ルート分散構造のため弱まる場面があること、各設定の説明密度に粗さが残る場面があること(特に後発の3ルートでは設計の余裕が見えない場面がある)。それを差し引いて9.0だ。

少し補足すると、月姫のシナリオを担当した奈須きのこさんは、その後TYPE-MOONを商業ブランド化し、2004年のFate/stay night以降、20年以上にわたって日本のサブカルチャーに大きな影響を与え続けることになる。月姫はその系譜の最初の一本として、設定の誠実さだけでなく歴史的意義の観点でも記録に値する。歴史的意義に9をつけた根拠だ。

「真祖/死徒の体系、教会/代行者/埋葬機関の組織設計、直死の魔眼の哲学的射程——月姫は『調べた跡』ではなく『自前の体系を持っている』希少な一本だ。」

— 大和仁

クリア後には、ロアの転生システムの設定整合性、遠野家の混血設定の生物学的・神学的な背景、各ルートの真相の構造、月姫の「月」という題名の象徴論を、具体的に論じた。プレイ後に読みに来てほしい。