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大和仁のレビュー(ネタバレあり) — WHITE ALBUM

大和仁
大和仁
小学校教諭・知識人
7.0/10
7.0 / 10

由綺の『WHITE ALBUM』と理奈の『SOUND OF DESTINY』を対の詩として読むと、この作品が二人の女のアイデンティティを歌詞というレイヤーで対比させる構造だったとわかる。

ネタバレあり版では、劇中で理奈が自分で書いた歌詞を口ずさむ場面の文学的価値、由綺の『WHITE ALBUM』と理奈の『SOUND OF DESTINY』を「埋めたい者の詩」と「囚われている者の詩」として対比させる読み方、各ルートの結末がそれぞれの歌詞の主題をどう変奏しているか、冬弥の煮え切らなさを「歌詞を聴き取る器」として読むことの是非——あたりが中心だ。文学テキストとしての歌詞分析が軸になる。

スコア詳細

歴史的意義 9
文章力・描写力 8
テーマ・メッセージ性 8
設定の独自性 6
主人公の造形 5
テンポ・緩急 6

この作品を「詩集」として読み直す

ネタバレ版ではまず、本作の構造を「詩集」として読み直すところから始めたい。

本編は六人のヒロインそれぞれの恋愛ルートで構成されている。森川由綺、緒方理奈、澤倉美咲観月マナ篠塚弥生飯田はるか。物語のレベルでは、それぞれの結末が「すれ違い」の主題をどう変奏するかという作りになっていて、これは栞さんがしっかり構造分析していた。ぼくは別のレイヤーで同じ作品を読む。劇中で流れる「歌」の歌詞を、ひとつひとつの詩として読み、それぞれの詩が誰の主題を引き受けているかを見る、という読み方だよ。

本作の中核となる二つの詩は、由綺のキャラクターソング兼ファーストアルバムのタイトル曲『WHITE ALBUM』と、人気アイドル緒方理奈のキャラクターソング『SOUND OF DESTINY』だ。前者は須谷尚子作詞で、由綺のために書かれた他者の言葉。後者は——ここがネタバレに関わる重要な事実なんだけど——劇中の設定では理奈自身が作詞した曲、ということになっている。表向きの作詞クレジットは同じ須谷尚子だが、劇中世界の中では理奈が自分で書いた詩、として扱われる。この設定の文学的意味が、ここからの話の中心だ。

理奈が自分の書いた詩を口ずさむ場面——本作で最も文学的な瞬間

劇中で、緒方理奈が自分で書いた歌詞を独り言のように口ずさむ場面が一つある。ここが、ぼくが本作で最も文学的に巧いと感じた瞬間だ。

具体的には、理奈が冬弥との関係に揺れている時期、彼女が誰もいない場所で「愛という カタチないもの 囚われてる…」と呟くシーンだ。前後の文脈では何の説明もなく、ただ口ずさんでいるだけ。一見すると、何気ない独白に見える。だが、これは『SOUND OF DESTINY』の冒頭の歌詞なんだよ。劇中で理奈本人が書いたという設定の詩を、理奈自身が、自分の現在の感情の言語化として口ずさんでいる。

この構造は、文学的にすごく豊かなんだ。「自分が過去に書いた詩が、現在の自分の感情をぴたりと言い当ててしまう」という事態が、ここで起きている。ふつう詩を書く時、人は自分が感じていることを言語化しようとして書く。だが書き上がった詩は、書いた瞬間の感情を超えて、書き手自身の未来の感情まで予言してしまうことがある。それは詩が個別の感情を超えて、普遍的な感情の形を捉えてしまうからだ。「愛という カタチないもの 囚われている」というフレーズは、書いた当時の理奈にとってはまだ抽象的な真理だったかもしれない。それが、冬弥と出会った今の理奈にとっては、自分の状態そのものになっている。

これがね、文学的にちゃんとした手法なんだよ。詩人が自作詩に「追いつかれる」現象を、シナリオの中で書いている。エロゲーで、ここまで意識的に詩と作中人物の関係を書ける書き手は、当時としては相当に珍しい。ぼくはこのシーンを読んで「あ、原田宇陀児は本気で詩を扱おうとしている」と確信した。本作の文学的な核は、実はここにあると思う。

もうひとつ補足したいのは、この構造が「アイドル」という設定と深く接続していることだ。アイドルは「他人が書いた言葉」を歌わされる職業だよ。だがここでは、理奈は自分で書いた言葉を歌い、自分で書いた言葉に追いつかれている。「他人の言葉を歌わされる存在」であるはずのアイドルが、「自分の言葉を生きている存在」になる瞬間が、この口ずさみだ。職業設定の主題と詩の主題が、ぴたりと重なる場面だ。

『WHITE ALBUM』と『SOUND OF DESTINY』——埋めたい者と囚われている者

本作の二つの詩は、対の構造を持っている。一方は「埋めたい」と歌い、もう一方は「囚われている」と歌う。

由綺の『WHITE ALBUM』のキーフレーズはこうだ。「すれ違う毎日が 増えてゆくけれど」「アルバムの空白を全部 埋めてしまおう」「大切なピースの欠けた パズルだね」。ここで主語は「埋めようとする者」だ。「空白」「欠けたピース」というイメージは、現状の不完全さを認識した上で、それを完成形に近づけようとする意志を含んでいる。詩のベクトルは「不在→現在→未来」の方向に開かれている。

一方、理奈の『SOUND OF DESTINY』。「愛という カタチないもの 囚われている」「心臓が止まるような恋が あること知ってる」「ラクをせず 尽きることのない情熱は/どこから来るの?」。ここでの主語は「囚われている者」だ。動きが止まっている。「カタチないもの」というイメージは、由綺の「埋める」の対極にある。埋めようとすれば形が必要だが、形のないものは埋めようがない。詩のベクトルは外に開かれず、内側に閉じている。「どこから来るの?」という問いも、答えを求めていない問いだ。問いの形をした嘆きだよ。

この二つの詩を並べて読むと、由綺と理奈という二人の女のアイデンティティが、詩というレイヤーで対比されているのがわかる。由綺は「空白を埋めようとする」素朴な少女で、すれ違いを認識した上でそれに対抗しようとする意志を持つ。理奈は「形のない愛に囚われている」洗練されたアイドルで、対象が形を持たないまま自分の内側でだけ膨らんでいく感情に飲まれている。物語のレベルではこの二人は『音楽祭』で最優秀賞を競うライバルとして配置されているけれど、詩のレベルでは「主題そのものが対」になっている。これは設計として相当に意識的だよ。

由綺ルートのトゥルー想定の結末——由綺が「冬弥君の為に、歌うんだから…!」と『音楽祭』に向かう朝——は、まさに『WHITE ALBUM』の「埋めてしまおう」の意志を、由綺自身が引き受ける場面だ。詩で歌っていたことが、行動として実装される。一方、理奈ルートでの理奈の最終的な選択——『音楽祭』最優秀賞獲得直後の引退宣言、芸能界からの離脱——は、「囚われている」状態を、囚われたまま生きることを選ぶ宣言だよ。アイドルという形を捨てても、形のない愛にだけは囚われ続ける、という選択だ。詩と結末がきれいに対応している。

他のルートも歌詞のレイヤーで読み直す

残りのルートも、二つの詩の主題のどちらかに引きつけて読むと位置がはっきりする。

澤倉美咲ルート。クリスマスイヴに由綺のライブを諦めて美咲を呼ぶ夜、冬弥は美咲の処女を受け取る。事後、地の文に「一瞬だけ美咲さんの顔に由綺の顔が重なった気がした」と差し込まれる。そして結末、美咲と冬弥が春先のミュージックショップで『WHITE ALBUM』のアルバムを手に取って「一緒に聴きましょ…」と二人で聴くシーンに至る。これは「埋めようとした空白を、別の誰かで埋めた結果、本来の空白の輪郭がより鮮明になる」という設計だ。由綺の歌が物理的に二人の生活の中に残り続けることで、「埋めた」と「埋めきれなかった」が同居する。『WHITE ALBUM』の詩が、別の意味でこのエンディングに引用される。アルバム配置の設計、相当に意識的だよ。

篠塚弥生ルート。これは難しい。弥生は由綺を一方的に愛していて、「私は、藤井さんを愛してはおりません」と明言した上で、冬弥に身体だけを差し出す関係を結ぶ。愛情なき性的奉仕、男女役割の逆転、由綺への代理的アクセス。このルートは由綺の『WHITE ALBUM』の主題からは外れていて、むしろ理奈の『SOUND OF DESTINY』の主題に接続している。「形のない愛に囚われている」者が、形を持たない愛を、形のある身体だけで処理しようとする試みだ。弥生は由綺という対象から最終的に何も得られない。「形のない愛に囚われたまま」を選択し続ける構造になっている。1998年時点でこの主題をここまで書いた作品があったというのは、業界史的にも記録に値する。

観月マナルート。マナは由綺の「お姉ちゃん」として彼女を慕う高校生で、冬弥との関係を進めながらも最終的には「私が、お姉ちゃんの恋人を取っちゃうわけにはいかないでしょ?」と身を引く。これは『WHITE ALBUM』の主題ではなく、また『SOUND OF DESTINY』の主題でもない。むしろ「他者の物語に決定権を委ねる」という第三の主題で、マナは由綺と冬弥のすれ違いの物語に自分の物語を従属させる選択をする。歌詞のレイヤーでは沈黙する選択、と言える。詩の言葉で語らないことで、詩の外側に立つ。

飯田はるかルートには2バージョンのエンドがある。共同浴場で結ばれた後、片方では「行かなきゃ」「どこに?」「…由綺のとこ」と冬弥を由綺の元に送り出し、もう片方では春の青空の下で受け入れる。これは「『WHITE ALBUM』の主題(埋める)に従う」道と「自分の物語を選ぶ」道の両方を、同じヒロインで提示する設計だ。はるかというキャラの幅を、ルート分岐という形式で表現している。詩のレイヤーでは「歌に従う/歌から離れる」の両解を示す立場、になる。

冬弥は何のためにそこにいるのか——「歌詞を聴き取る器」としての主人公

非ネタバレ版で書いた主人公への評価を、ここで詩の角度から見直したい。

冬弥は受動的だ。能動的な選択を避け、ヒロイン側に決断を渡す。栞さんはこれを「ヒロイン側に物語の能動性を渡すための装置」と読んだ。ぼくも構造分析としては同じ読みに着く。ただ、ぼくは別の角度からも読みたい。冬弥はもう一つの機能を持っていると思う——「ヒロインたちが発する詩的な言葉を聴き取り、記録する器」という機能だ。

冬弥の地の文には、ヒロインたちの言葉を逐一観察し、書き留めるような癖がある。書かなくてもいい情報がわざわざ書かれる、というあの文体の特性だよ。電話越しに由綺が少し沈むと「ちょっとがっかりしてるのが、俺にはよく判った」と書く。理奈が口ずさむ自作詞のフレーズも、冬弥の意識が「これは何の歌だっけ」と引っかかったから読者にも届く。冬弥が観察者として徹底的に受動的であることで、ヒロイン側の言葉——詩としての言葉、独白としての言葉——がフィルターなしに記録される。

これは、文学史的に言うと、一人称小説における「視点人物の透明性」の問題に近い。例えば英国の探偵小説でワトソン博士がホームズを記録する役割を果たすように、視点人物自身に強い個性を与えると、観察対象の個性が削れてしまう。冬弥に強い人格を与えると、由綺の自虐や理奈の独語の独自性が、冬弥の解釈フィルターを通って濁る。冬弥の弱さは「ヒロインの言葉を最小限の歪みで通すための、意図的な空洞」として設計されている、と読むこともできる。

ただね、これは設計として理解できることであって、体験としては別問題なんだよ。視点人物が透明な観察者だと、プレイヤーが乗り込む座席がない。「冬弥に共感する」のではなく「冬弥という小さな窓から、ヒロインたちの詩を覗く」のがこの作品の正しい読み方だと思うんだけど、その読み方に切り替えるのに時間がかかる。気づくまでに脱落する人が出るのは仕方ないし、気づかないまま「ただの煮え切らない男」として終わってしまっても、それはプレイヤーの読み方の問題ではなく、設計の選択の代償だ。主人公の造形は5のままだよ。設計意図を理解した上での5、という意味だ。

アイドル氷河期という補助線——ただし、ぼくが外から引いた線だ

レビューの最後に、ぼくがこの作品を読むうえで引いた補助線を一つ書いておく。ただし、これは作品がぼくに教えてくれたことではなく、ぼくが自分で調べて持ち込んだ文脈だ、という但し書き付きでね。

ぼくはアイドル文化に深くは詳しくない。歴史も科学も民俗学も読んできたけど、現代日本のアイドルという文化現象には正面から向き合ったことがなかった。本作をきっかけに少し調べてみると、1998年というのが、アイドル氷河期の終わりとモーニング娘。の登場の中間あたりで、ソロアイドルが商業的に成立しにくくなっていた時期だとわかった。本作の森川由綺は、その時代に「デビュー1年目のソロアイドル」として置かれているキャラだ。

その補助線を引くと、由綺のキャラ造形——「特別可愛いとかじゃない」「スタジオとかにいないと誰だか判らないんじゃない?」と自虐する素朴な少女が、それでも歌いたいと思っている——が、当時のソロアイドルが抱えていた不安と地続きに見えてくる。アイドルを「キラキラした記号」ではなく「売れるか売れないかの境界にいる、ひとりの素朴な少女」として描いているのは、時代に対して誠実な書き方だと思う。ここは作品を素直に評価したい。

ただ、正直に切り分けておく。この文脈はぼくが外から持ち込んだものであって、作品の設定そのものが歴史・科学・民俗の知識で裏打ちされて奥行きを増した、という話ではない。ぼくの評価軸の核——設定が現実の知識とどれだけ噛み合っているか——が、本作で本当に発動したとは言えないんだよ。詩を文学として読めたのは文章とテーマの達者さのおかげだし、アイドル史はぼく自身が引いた補助線だ。核の知識軸は、やはりほぼ不発だった。そこを誤魔化さないのが、この点数の前提になる。

7.0——詩を読む人に、それでも勧める

ネタバレ版でも結論は同じだ。非ネタバレ版で7.5から7.0に直した理由を、ここでもう一度、詩の角度から確かめておく。

歌詞を文学的テキストとして扱う作品は珍しくないが、「劇中人物が自作詞を口ずさむことで、過去の自分の詩に追いつかれる」という構造をきちんと書いた作品は、ぼくの知る限り当時のエロゲー業界では他にあまり見ない。理奈が『SOUND OF DESTINY』の冒頭を口ずさむあの場面ひとつで、この作品の文学的水準は確実に一段引き上げられている。本気で詩を扱おうとした書き手の作品だ。ここは高く買う。

由綺の『WHITE ALBUM』と理奈の『SOUND OF DESTINY』の対比——「埋めたい者の詩」と「囚われている者の詩」——も、二人のヒロインの主題対立として完璧に機能している。物語のレベルでも、詩のレベルでも、対が成立する設計。原田宇陀児の文体も、情報量ではなく観察密度で書く一人称内語、整えない会話文の自然さと、現代恋愛ものなのに文学的系譜の上に立とうとしている。テーマ・メッセージ性は8、文章力・描写力も8。エロゲーとしては高い部類だよ。

ではなぜ8点台に届かず7.0なのか。ぼくの総合点は、ぼく自身の評価軸——実世界の知識的裏付け——がどれだけ発動したかで決まる。本作でその核が本当に噛んだのは、理奈が挙げるシュルレアリスム・象徴主義の画家名がキャラの主題と接続していた、あの一点だけだ。内輪参照ではない教養の痕跡が一本、確かに通っている。だが一本だけだ。詩の読み込みも、アイドル史の文脈も、ぼくの知識軸ではなく、文章・テーマの評価とぼく自身の補助線から来ている。設定の独自性を「知識を新しい角度で組み替えているか」で見るぼくの基準では、この純愛劇に高い点は当てられない。独自性は6に下げた。だから前に付けた7.5は切り上げだったと思う。画家名の糸一本ぶんを正直に足して、7.0。これがぼくの物差しに誠実な数字だ。

弱点も改めて書いておく。冬弥の弱さは「ヒロインの詩を最小限の歪みで通すための、意図的な空洞」として設計されているのだろうとは思うけれど、それでも体験として「乗りにくい主人公」であることは変わらない。設計意図と体験負荷は両立しうる、という記録の意味で主人公の造形は5。テンポは6。週単位スケジュールの読み取りにくさは、すれ違いを実装するための設計の代償だが、もう少し手がかりがあってもよかった。

1998年という年に、定型を一度自ら作って自ら裏切る側に回ったLeafの動き、そしてその試みが受容史に残った事実。歴史的意義は9で動かない。これは作品が業界史で占めた位置の話で、ぼくの知識軸の不発とは別枠だ。総合7.0。詩を読むのが好きな人、文体の細部を味わうのが好きな人、1998年のエロゲー業界史に関心がある人——どれかに当てはまる相手には、それでも勧める。当てはまらない人にとっては、テンポの悪い恋愛ADVに見えるかもしれない。それは本作の設計の代償として、誠実に書いておく。