2004年。学園で結ばれて終わるはずの恋愛ゲームが、その「先」を本気で描いた。卒業の門の向こうへ、これほど遠くまで歩いた一本を、わしは22年経った今も他に知らぬ。
2004年4月、Keyの三作目として出た全年齢の恋愛アドベンチャーじゃ。前2作KANON(1999)・AIR(2000)が18禁だったのに対し、本作はKey主力作で初めて全年齢で出た。坂の下の高校で、無気力な三年生・岡崎朋也が、留年を繰り返した病弱な少女・古河渚と出会い、廃部の演劇部復活に巻き込まれる学園編。そして卒業後の長い物語を描く二部構成じゃ。麻枝准が企画・メインシナリオ・音楽を主導した、KANON・AIRから続くKey三部作の到達点でな。22年ぶりに再びディスクを回した。残ったもの、削れたもの、その両方を。前2作からの飛躍と、後の受容も併せて見ていくとしよう。
スコア詳細
2004年、坂の下の町で泣かされた話——わしは発売を三年待った
まずは三年待たされた末に、全年齢という新しい器で出てきたという話から書こう。
2004年4月、Keyの三作目として出た全年齢の恋愛アドベンチャーじゃ。プレイしたのはPC初回限定版。前2作のKANON(1999)・AIR(2000)はいずれも18禁じゃったが、本作はKey主力タイトルとして初めて全年齢で出た。企画発表が2001年、そこから三年の難航した開発を経ての登場でな。わしも発売を三年待った口じゃ。麻枝准が企画・メインシナリオ・音楽を主導し、涼元悠一らが各ルートを分担しておる。
物語は、坂の下の高校に通う三年生・岡崎朋也の独白から始まる。母を幼くして亡くし、父との関係も冷えきり、バスケ部時代に父の暴力で肩を痛めて以来、何にも本気になれぬ無気力な日々を、親友の春原陽平を相手に送っておる青年じゃ。ある朝、登校路の坂下で、ひとり立ち尽くす同学年の少女・古河渚と出会う。長期の病欠で留年し、慣れたはずの校舎に居場所をなくした少女でな。廃部になった演劇部の復活を目指す渚に巻き込まれるかたちで、朋也は学園のさまざまな少女たちと関わっていく。世話焼きの双子・藤林姉妹、両親の謎を抱えた天才少女・一ノ瀬ことみ、生徒会長を志す元番長の転校生・坂上智代、星形のヒトデを彫り続ける伊吹風子。坂の上の学校と坂の下の町で、いくつもの出会いを重ねながら、朋也は自分の人生を取り戻していく。
本作は二部構成じゃ。学園を舞台にした青春編と、卒業後にも続く長い物語の二部からなる。この後半部こそが本作の核心で、当時の恋愛ADVが踏み込まなかった領域へ大きく踏み出しておる。詳しい話は結末に関わるためここでは伏せるが、本作はKANON(1999)、AIR(2000)、本作(2004)と続くKey三部作の三作目、最終到達点にあたる。前2作が18禁で築いたものを、全年齢という新しい器で完成させた作品じゃ。
当時の評価は、全年齢で10万本超というセールスを見れば一目瞭然じゃが、わしが言いたいのは数字ではない。本作は「家族」「絆」をテーマにしたことで、男性向けギャルゲーとしては異例の女性ファンの流入を生んだ。性描写を外した恋愛ADVが、より広い層に届くと証明した一本でもある。後に京都アニメーション版を経て「CLANNADは人生」とまで言われる作品になるが、その評判の根はこのPC版にある。わしが評価するのはそこじゃ。
【当時の記憶】2004年、恋愛ゲームが「卒業後」を主戦場にした
まず2004年当時の業界の感触から。
当時の恋愛ADVのほぼ全ては、学園が舞台で、ゴールは「結ばれること」じゃった。告白して、両想いになって、めでたしめでたし。物語は恋愛の成立で終わる。これが業界の暗黙の型じゃった。
そこへ本作が出た。何が衝撃だったか。本作は恋愛の成立を「終わり」ではなく「途中」に置いた。少女と結ばれた、その先を本気で描こうとしたのじゃ。卒業後、社会に出て、家族を作り、人が変わっていく——学園恋愛で完結していたジャンルに、もっと長い時間軸を持ち込んだ。何がどう描かれるかは結末に関わるため伏せるが、当時、「恋愛の続き」をここまで正面から書いた恋愛ADVは、わしの記憶にはなかった。プレイヤーは結ばれた安心の先で、予想もしなかった重さを突きつけられる。「成就したら終わり」という型を、本作は根底から裏切った。これが2004年の衝撃じゃった。
もう一つ。渚という少女の造形じゃ。坂下での初対面、渚は誰もいない校門に向かって「この学校は、好きですか」「わたしはとってもとっても好きです」「でも、なにもかも…変わらずにはいられないです」と呟いておった。長期病欠で留年し、同級生が皆卒業して居場所をなくした少女でな。朋也が「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ」と返す——この「変わっていくものをどう受け止めるか」という問いが、本作全体を貫くテーマの最初の提示になっておる。当時のわしは、この坂下の一場面が後で全部効いてくると分かった時に背筋が伸びた。
そして「町が変わっていく」というモチーフじゃ。渚の父・古河秋生が繰り返し言う「町は変わり続けていく。それを止めることはできやしねぇんだよ」「それが、人が生きる、ということだからな…」——この台詞が、渚の坂下の呟きと響き合う。本作は「変化」と「喪失」を恐れず、それでも続いていく町と家族を描こうとした作品じゃった。2004年の時点でここに踏み込んだのは、当時の業界では破格じゃった。なお渚の父・秋生は、古河パン店を営む強面の元教師で、家族のためなら何でもする男じゃ。本作の「家族」テーマを背骨で支える人物として覚えておくとよい。
22年後に再プレイして——残ったもの、削れたもの
22年ぶりに通しで読み直した感触はこうじゃ。
……残っておった。本作後半の、ある親子をめぐる場面じゃ。具体的に何が起きるかはネタバレあり版に譲るが、500年生きておると、こういう場面が時間を越えて来るのは珍しい。じゃが来た。それも二度来た。本作は前半で築いた幸せを、後半で大きく揺さぶる。その揺さぶりの底で、ある一言が効く。22年経って読み返して、わしはまた動かされた。本物はこういうものじゃな。時間に削られなかった。
なぜ効くか。それは、本作が学園編で長い時間をかけて日常を積んだからじゃ。渚との出会い、演劇部の仲間たち、町の人々、そして渚の父・秋生や母・早苗との関わり。一見すると後半と無関係に見えるこの日常の積み上げが、全部、後半の一点に繋がってくる設計になっておる。早苗の躾、秋生の生き方、渚の口癖——それらが伏線のように後半で回収される。本作の感動が薄っぺらくならないのは、この前半の積み上げがあるからじゃ、と再プレイで再確認した。
秋生の造形も再プレイで改めて巧いと感じた。口は悪く乱暴、強面じゃが、家族のためなら何でもする男でな。「男が廃ろうが、守らなければならないものがある。違うか?」という秋生の生き方が、本作のテーマである「家族」を一身に背負っておる。「この町と、住人に幸あれ」という秋生の呟きは、本作が何を描こうとしたかを一言に圧縮しておる。血の繋がりや形ではなく、選び取って守っていくものとしての家族——その重みを、秋生という存在が支えておる。
逆に削れたものもある。一つは、学園編の各ルートの強度差じゃ。本作は学園で多くの少女たちのルートを描くが、その出来にはばらつきがある。詳細は伏せるが、特に一つのルートは、過去の悲劇の描き方が他より唐突で、全体の水準から浮いておる。当時から指摘されておった点で、再プレイでも同じ感触じゃった。本作は「全ルートが等しく傑作」ではない。これは弱点じゃ。
もう一つは、本作の結末の論理じゃ。詳細は伏せるが、本作の最終的な帰結には、当時から「都合が良すぎる」という批判が付きまとっておる。情緒で押し切る力は確かにあるが、論理だけ見れば隙間が残る。これも後で総合点に反映する。
時間の審判——「学園編が長い」は欠点か、それとも強度か
時を経ても有効か。本作最大の論点に踏み込む。
本作には22年間ずっと付きまとう論点がある。「後半の本題に辿り着くまでの学園編が長すぎる」というものじゃ。本作は核心パートに入るまでに、学園での日常を長く積む。当時「中盤がダレる」という声があり、序盤で投げ出すプレイヤーもおった。実際、面白くなり始めるまでに時間がかかる、という評はずっと付いて回っておる。
わしの判決はこうじゃ。これは半分欠点で、半分強度じゃ。
まず欠点の側から。本作の序盤〜中盤は、確かにゆっくりじゃ。本題の重さに比べて、学園編の日常パートは長く、テンポも一定ではない。本作を「序盤で退屈して投げ出した」というプレイヤーが一定数おるのは事実で、その層を取りこぼした責任は作品の側にある。これは甘さじゃ。今の目で見ても、もう少し刈り込めた部分はある。
じゃが強度の側も書かねば不公平じゃ。本作の核心があれほど効くのは、学園編で長い時間をかけて日常を積んだからじゃ。短い助走では、あの重さは出ない。実際、当時に序盤で投げ出し、後年に再プレイして「2年前の自分を殴りたい」と評価を改めた、という声が今も語り継がれておる。一周目には欠点に見え、再プレイで強度に見える。「長さ」が「重さ」に転化する設計になっておるのじゃな。これは前作AIRの「難解さ」が寿命を延ばしたのと同じ構造じゃ。学園編の長さは、削れなかった——むしろ時間が正しさを証明した部分じゃ。これは時間の審判による評価の修正点じゃ。
もう一つ時間に試された論点がある。本作の結末をめぐる「ご都合主義」という批判じゃ。本作の最終的な帰結を「都合が良すぎる」と取る声は当時からあり、今も根強い。わしの読みでは、これは半分認める。論理の隙間は確かにある。じゃが、本作の結末は「論理で納得させる」のではなく「情緒で押し切る」設計じゃ。前半で本気で揺さぶったからこそ、最後の帰結が「ただの都合」ではなく「それだけの想いの結実」に見える。情緒が論理を追い越して届く——これは麻枝准の方法論じゃ。論理の隙間は欠点じゃが、それを情緒で埋めきった点は、22年経っても有効じゃと判じる。
業界史の中で——KANON・AIRの到達点、そして「人生」になった一本
本作が業界に残したもの。それを見ていこう。
本作はKey三部作の三作目、最終到達点じゃ。1999年のKANON、2000年のAIR、2004年の本作——この三本がKeyの黄金期を作った。三作の関係を、実際の記憶から振り返ろう。
KANONは「奇跡」を、AIRは「家族と喪失」を核心テーマに据えた。本作はその両方を受け継ぎ、さらに前へ進めた。前二作が別々に掴んだ感情の作り方——「奇跡で救う」型と「救えない喪失」型——を、本作は一本の中で統合してみせた。どう統合したかは結末に関わるため伏せるが、前作AIRに9.0を付けたわしから見れば、本作はAIRと同じ高さに、別の角度から登っておる。これが到達点という意味じゃ。
テーマの面でも完成がある。AIRの「家族」は、すでにある関係を「どう失うか」を書いた。本作はそれを「家族をゼロから作っていく」物語へ展開した。主人公が少女と家族を作り、町の人々と繋がり、長い時間の中で「家族とは何か」を問い直していく。東浩紀という評論家が、AIRを「父になれない」物語、本作を「父になっていく」物語として対比したのは、この点を正確に突いておる。Keyの思想が「喪失の肯定」から「再生の肯定」へ転換した、その分岐点が本作じゃ。
業界全体への影響も見ておこう。本作の最大の功績は、恋愛ADVに「卒業後」「家族」「長い時間軸」という主戦場を開いたことじゃ。それまで学園恋愛で完結していたジャンルに、「人が家族を作り、続けていく」という射程を持ち込んだ。後の泣きゲーやドラマ性重視のADVが「結ばれた先」を描けるようになったのは、本作が道を通したからじゃ。一作品がジャンルの射程を一気に広げるのは、長く生きていてもそう何度も見るものではない。
そして全年齢ヒットという事件じゃ。本作はKey初の全年齢主力作で、10万本を超え、女性ファンの異例の流入を生んだ。それまで「エロゲー」という枠で語られていたこの種の物語が、性描写を外しても——いや、外したからこそ——もっと広い層に届くと証明した。後にこの作品が京都アニメーション版を経て「CLANNADは人生」とまで言われるようになったのは、この全年齢化が下地にある。エロゲー発の物語が、ジャンルの壁を越えて一般の物語として記憶された——その大きな一例が本作じゃった。これも歴史じゃ。
「メグメル」と「小さなてのひら」——詩が告げていたもの主題歌のことも触れておこう。本作のオープニングは「メグメル」じゃ。冒頭の詩はこう始まる。「透き通る夢を見ていた 柔らかい永遠」。そして「重ねた手と手の中に 小さな未来が見えたら」と続く。当時のわしは、これをただ柔らかな少年少女の歌として聞いておった。じゃが本編を通すと、この「重ねた手」「小さな未来」という詩語が、本作が描こうとしたものを先に告げておったと分かる。そして物語の終わりに流れるのが「小さなてのひら」じゃ。「小さな手にも いつからか 僕ら 追い越してく強さ」「小さな手でも 離れても 僕らは この道 行くんだ」——親が子に追い越されていく、それでも同じ道を行く、という親子の歌でな。麻枝准が作詞作曲したこの一曲は、本作のテーマをそのまま畳み込んでおった。何にどう繋がるかは結末に関わるため伏せるが、開幕と幕引きの二曲で、本作の主題は最初から最後まで歌に包まれておったのじゃな。
反響のことも史的に残しておこう。本作の楽曲群は、後の京都アニメーション版で更に広く知られることになった。特に劇中歌「だんご大家族」は、ゲーム・アニメ双方でカルト的な人気を獲得し、本作を象徴する一曲としてインターネット上のあちこちで歌われ、語られた。「だんご だんご だんご 大家族」「みんなみんなあわせて 100人家族」「うれしいこと 悲しいことも 全部まるめて」と歌うこの曲は、まさに本作の「家族」というテーマそのものを背負っておる。一作品の劇中歌が、テーマを背負ったまま作品の壁を越えて一人歩きする——これは長く生きていても珍しいことじゃ。本作が業界史に残したものは物語だけではない。歌が物語のテーマを運んで広がっていく道筋を、本作は確かに通しておった。これも歴史じゃ。
9.0——三部作の到達点。ただし完璧ではない
最後に判決を下すとしよう。
本作後半の親子をめぐる場面は残った。秋生の「この町と、住人に幸あれ」も、学園の日常を後半の一点に収束させる構造の大きさも、22年経って削れておらん。これらは時間に削られなかった部分じゃ。本物はこういうものじゃな。22年経って読み返して、わしはまた動かされた。それも二度。500年生きておると、これが来るのは珍しい。
削れた部分もある。学園編各ルートの強度差、本題に辿り着くまでの長さ、結末の論理の隙間。これらは時代の制約と、本作の野心が大きすぎたがゆえの綻びじゃ。本作の弱点は「足りなかった」というより「全部を等しく届けきれなかった」というものじゃ。それだけ広いものを狙っておった証拠でもある。
業界史の中での位置付けは動かない。Key三部作の到達点、KANONの「奇跡」とAIRの「喪失」を統合した一本、恋愛ADVに「卒業後」という主戦場を開いた作品、そしてエロゲー発の物語が全年齢で一般に届くと証明した一本。少なくとも次の50年は確実に残る。発売から22年、移植が繰り返され、京アニ版を経て「人生」とまで呼ばれ、新規プレイヤーが今も流入し続けておる——時間がこの作品を選び続けておる、という事実が、何よりの審判じゃ。
それが9.0の意味じゃ。10に届かなかった理由は、結末の論理を情緒で押し切った設計の甘さと、学園編各ルートの強度のばらつきによる。全部を等しく届けきれていたら10じゃった。じゃが届かせきれなかった部分があるからこそ、9.0じゃ。本作の到達点だけで言えば、これはKey三部作にふさわしい一点じゃ。歴史を作り、時を超えた作品にふさわしい数字じゃ——と、わしは判決を下した。
詳細な話——後半の物語の全貌、結末の正体、各ルートの顛末、Key三部作の到達点としての具体的な意味——はネタバレあり版に書いた。興味があればそちらを読んでくれ。
