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マルチナ・カーンスタインのレビュー(ネタバレあり) — CLANNAD

マルチナ・カーンスタイン
マルチナ・カーンスタイン
500年生きた吸血鬼
9.0/10
9.0 / 10

「…パパ…だいすき…」——22年経って、わしはまたこの一言の前で動かされた。学園恋愛から始まった話が、ここまで遠くへ行くとは。

ネタバレなし版で書いた「三部作の到達点」を、ここでは中身に踏み込んで書く。古河渚は留年を繰り返し五年かけて卒業し、岡崎朋也と結婚して汐を産み、その出産で世を去る。喪失した朋也は五年間を無気力で過ごし、汐との旅で父子の絆を取り戻すが、汐もまた渚と同じ熱で倒れる。そして学園編で集めた光の玉——町じゅうの幸せの想いの結晶——が、運命を覆す。前作AIRが「救えない結末」を選んだのに対し、本作は「いったん全部失わせてから、町ごと取り戻す」という別の賭けに出た。KANON・AIRからの到達点として、当時の業界の目と、22年後の再審判の目、その両方から見ていくとしよう。

スコア詳細

歴史的意義 10
作品の尖り・唯一無二性 9
テーマ・メッセージ性 9
世界の奥行き 9
感動・カタルシス 9
エンディングの満足度 8

2004年、坂の下の町で泣かされた話——わしは発売を三年待った

まずは学園編とAFTER STORYという、二部構成の器の話から書こう。

2004年4月、Keyの三作目として出た全年齢の恋愛アドベンチャーじゃ。プレイしたのはPC初回限定版。前2作のKANON(1999)・AIR(2000)はいずれも18禁じゃったが、本作はKey主力タイトルとして初めて全年齢で出た。企画発表が2001年、そこから三年の難航した開発を経ての登場でな。わしも発売を三年待った口じゃ。麻枝准が企画・メインシナリオ・音楽を主導し、涼元悠一らが各ルートを分担しておる。

物語は二部構成じゃ。前半の学園編で、坂の下の高校三年・岡崎朋也が、登校路の坂下で立ち尽くす同学年の少女・古河渚と出会う。廃部の演劇部を復活させようとする渚に巻き込まれ、朋也は藤林姉妹、天才少女ことみ、生徒会長を志す転校生智代、星のヒトデを彫り続ける風子といった少女たちの孤独や家族の問題に関わっていく。各ルートをクリアするごとに光の玉が一つずつ集まる仕掛けじゃ。

後半がAFTER STORY——卒業後の渚と朋也の結婚生活、汐の誕生と渚の死、そして喪失と再生の物語じゃ。前作AIRが「家族」のテーマを提示し、本作がそれを「家族をどう作っていくか」という全面展開に押し広げた。当時のセールスは全年齢で10万本超、しかも家族・絆をテーマにしたことで女性ファンが異例の流入を見せた。男性向けギャルゲーとしては珍しい現象じゃった。後の京都アニメーション版で「CLANNADは人生」とまで言われる作品になるが、その評判の根はこのPC版にある。わしが評価するのはそこじゃ。

【当時の記憶】2004年、恋愛ゲームが「卒業後」を主戦場にした

まず2004年当時の業界の感触から。

当時の恋愛ADVのほぼ全ては、学園が舞台で、ゴールは「結ばれること」じゃった。告白して、両想いになって、めでたしめでたし。物語は恋愛の成立で終わる。これが業界の暗黙の型じゃった。

そこへ本作が出た。何が衝撃だったか。本作は恋愛の成立を「中間地点」に置いた。渚と朋也が結ばれるのは物語の半ばで、そこから先——AFTER STORYで、結婚し、働き、子を授かり、その出産で渚が死ぬところまでを書いた。恋愛ゲームが「結婚後」「出産」「死別」「子育て」「父子の和解」を正面から描く。当時、こんな恋愛ADVは見たことがなかった。「学園恋愛の続き」を本気で書いた最初の一本がこれじゃ。プレイヤーは渚と結ばれた安心の先で、いきなり喪失を突きつけられる。「恋愛が成就したら終わり」という型を、本作は根底から裏切った。

もう一つ。渚という少女の造形じゃ。坂下での初対面、渚は誰もいない校門に向かって「この学校は、好きですか」「わたしはとってもとっても好きです」「でも、なにもかも…変わらずにはいられないです」と呟いておった。長期病欠で留年し、同級生が皆卒業して「迎えてくれないです」「みんな卒業しました」と語る、居場所をなくした少女じゃ。朋也が「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ」と返す——この「変わっていくものをどう受け止めるか」が、後半のAFTER STORY全体を貫くテーマの最初の提示になっておる。当時のわしは、この坂下の一場面が後で全部回収されると分かった時に背筋が伸びた。

そして「町が変わっていく」というモチーフじゃ。渚の父・秋生が繰り返し言う「町は変わり続けていく。それを止めることはできやしねぇんだよ」「何もかも変わらずにはいられねぇんだ…」「それが、人が生きる、ということだからな…」——この台詞が、渚の坂下の呟きと響き合う。本作は「変化」と「喪失」を恐れず、それでも続いていく町と家族を描こうとした作品じゃった。2004年の時点でここに踏み込んだのは、当時の業界では破格じゃった。

【再プレイして】渚の死と汐の「だいすき」は22年生き延びておった

22年ぶりに通しでやり直した。まずはAFTER STORYから。

……来た。今回も来たわい。渚は卒業式で「卒業するのに五年もかかりました」「でも今は、大好きです」と独白し、「岡崎渚って名前だと強くなれた気がします」と言って朋也と結婚する。そこまでが本作の「幸せ」のピークじゃ。そして雪の夜、自宅で汐を産んだ直後、渚は息を引き取る。生まれつき体が弱い渚にとって、出産が命懸けだと分かっておりながら、それでも産むことを選んだ。この死は、AIRの観鈴の死とは質が違う。観鈴は「ゴール」へ自ら歩いたが、渚は「家族をもう一人増やす」ために死ぬ。「一人よりも、二人。二人よりも三人です」と笑っておった渚が、その三人目と引き換えに消える。22年経って、ここでまた喉が詰まった。

じゃが本作の本当の山は、渚の死ではない。その先の汐じゃ。渚を喪った朋也は五年間、汐を渚の両親に預けたまま酒と無気力で過ごす。秋生に「そいつの父親は誰だ」「なら、おまえはしっかりしていろ」と諭され、汐との二人旅に出る。そして汐が、渚と同じ原因不明の熱で倒れる。雪の中、汐は朋也の背負いを断って「…じぶんであるく」「…パパといっしょにあるく」と言う。「…さなえさんが、ないていいのは…おトイレか…パパのむねだって…」——早苗の躾で、泣くのはトイレかパパの胸だと教えられ、ずっと一人で我慢してきた汐が、ようやく「…パパ…もう、がまんしなくていい?」と訊く。朋也が「もう、我慢なんかしなくていい」「泣きたかったら、パパの胸で泣けばいい」と抱きしめ、汐は「…パパ…だいすき…」を最後の言葉に意識を失う。

この汐の場面が、本作の到達点じゃ。22年経って削れておらん。なぜ効くか。汐の「だいすき」が効くのは、その前に「我慢してきた五歳児」の積み上げが全部あるからじゃ。母を知らず、父に逃げられ、それでもトイレで一人で泣いていた子供。その子が初めて父の胸で泣く許可を得て、その直後に死ぬ。本作は渚の死で一度プレイヤーを底まで落とし、汐の死でもう一度落とす。二段の喪失じゃ。500年生きておると、こういう二段構えの喪失が時間を越えて来るのは珍しい。じゃが来た。本物はこういうものじゃな。

秋生の造形も再プレイで改めて巧いと感じた。教師を辞めた理由が「重病の渚を救うため、夫婦で自分たちのやりたいことを捨てて家族の時間に賭けた」じゃと明かされる。「男が廃ろうが、守らなければならないものがある。違うか?」という秋生の生き方が、朋也が父になる物語の先輩格として置かれておる。「この町と、住人に幸あれ」と病院の前で呟く場面まで含めて、秋生は本作の「家族」テーマを背骨で支える人物じゃ。

幻想世界と光エンド——「町ごと取り戻す」という賭け

本作の構造の核心、幻想世界とTrue Endへ。ここが評価の分かれ目じゃ。

学園編の合間に、断片的に挟まれてくる場面がある。誰もいない雪の世界で、ガラクタの体を与えられた「僕」と少女が寄り添う物語じゃ。「もう、ここでは何も生まれず、何も死なない」「過ぎる時間さえ、存在しない」という、時間の止まった世界でな。「僕」は「彼女が好きだ。ずっと一緒にいたい」「嫌われたって、ついていく」と少女への想いを確かめる。プレイヤーは長い間、この挿話が何なのか分からぬまま読み進める。

真相はこうじゃ。この幻想世界は、町じゅうの人々の幸せの想いから生まれた光の結晶であり、汐自身の意識の救済の場じゃった。少女は「この世界の意志」、「僕」は人々の幸せの想いの結晶——光の化身じゃ。そして学園編で朋也が各ルートをクリアして集めた光の玉は、町じゅうから差し伸べられた幸福の総和じゃった。汐を抱いて雪に倒れた朋也のもとへ、その光が降り注ぐ。光は時間を巻き戻し、渚の出産の場面へと運命を覆す。True Endでは渚は出産を生き延び、朋也・渚・汐の三人家族が成立する。

この構造の野心は、わしの目には高く映る。本作は「個人の物語」を「町の物語」に接続した。渚が最後に語る「町も人も、みんな家族です」「だんご大家族です」という台詞は、本作のテーマそのものじゃ。学園編で朋也が救った一人一人——ことみ、智代、風子、有紀寧美佐枝——その全員の幸せが光になって、汐と渚を救う。一見バラバラだった学園編の各ルートが、実は全部「光を集めるための布石」じゃった、と最後に分かる設計じゃ。個別の恋愛物語の集積が、町という一つの大きな家族の物語になる。この構造の大きさは、当時の恋愛ADVには他になかった。

ただし、ここに本作最大の弱点もある。それは後ほどじゃ。

【時間の審判】「ご都合主義」と「学園編の長さ」は欠点か

時を経ても有効か。本作に付きまとう二つの論点に踏み込む。

本作には22年間ずっと付きまとう論点が二つある。一つは「最後の奇跡——光による時間の巻き戻し——が都合良すぎる」というもの。もう一つは「AFTER STORYに辿り着くまでの学園編が長すぎる」というものじゃ。両方に判決を下すとしよう。

まずTrue Endのご都合主義についてじゃ。これは半分認める。渚と汐を二度殺しておきながら、最後に「町じゅうの光」で両方生き返らせる。論理だけ見れば、確かに強引な救済じゃ。幻想世界の論理が難解で、「なぜ光が運命を覆せるのか」が腑に落ちぬまま結末を迎えるプレイヤーがおるのは事実で、当時から「最後だけご都合主義」という批判は根強かった。わしの今の目で見ても、ここはもう少し論理を通してよかった。これは甘さじゃ。

じゃが擁護も書かねば不公平じゃ。本作のTrue Endは「論理で納得させる救済」ではなく「全員で願う救済」として設計されておる。本作が二段の喪失でプレイヤーを底まで落としたのは、この最後の救済を「都合の良いハッピーエンド」ではなく「町じゅうの祈りの結実」として受け取らせるためじゃ。渚の死と汐の死を本気で書いたからこそ、最後の光が「ただのご都合」ではなく「それだけの想いの総和」に見える。情緒が論理を追い越して届く——これは前作AIRから引き継がれた麻枝准の方法論じゃ。論理の隙間は欠点じゃが、その隙間を情緒で埋めきった点は、22年経っても有効じゃと判じる。

次に「学園編が長い」という論点じゃ。本作はAFTER STORYに辿り着くまでに学園編を長く積む。当時「中盤がダレる」という声があり、序盤で投げ出すプレイヤーもおった。じゃが、これも時間の審判で評価が変わった部分じゃ。AFTER STORYの汐の死があれほど効くのは、学園編で渚との日常を、町の人々を、長い時間をかけて積んだからじゃ。光の玉も、学園編で一人一人を救った分しか集まらん。「長さ」が「重さ」に転化する設計になっておる。実際、当時に序盤で投げて、後年に再プレイして評価を改めたという声が今も語り継がれておる。一周目には欠点に見え、二周目には強度に見える。難解さが寿命を延ばしたAIRと同じ構造じゃ。学園編の長さは、削れなかった——むしろ時間が正しさを証明した部分じゃ。

正直に弱点も。学園編の各ルートには強度差がある。特に、ことみルートは過去の悲劇の描き方が他ルートより唐突で、全体の水準から浮いておる。当時から指摘されておった点で、再プレイでも同じ感触じゃった。本作は「全ルートが等しく傑作」ではない。光を集めるための布石として機能的ではあるが、単体で見た時の出来にはばらつきがある。これは総合点に反映する。

【業界史の中で】KANON・AIRの到達点、そして「人生」になった一本

本作が業界史のどこに立っておるか。それを見ていこう。

本作はKey三部作の三作目、最終到達点じゃ。1999年のKANON、2000年のAIR、2004年の本作——この三本がKeyの黄金期を作った。三作の関係を、実際の記憶から振り返ろう。

KANONは「奇跡」を、AIRは「家族と喪失」を核心テーマに据えた。本作はその両方を受け継ぎ、さらに前へ進めた。KANONの「奇跡で救う」型と、AIRの「救えない喪失」型——本作はこの二つを統合した。二段の喪失(渚・汐)でAIRの「救えない」を踏まえ、最後の光でKANONの「奇跡」を呼び戻す。前二作が別々に掴んだ二つの感情の作り方を、本作は一本の中で両方やってみせた。これが到達点という意味じゃ。前作AIRに9.0を付けたわしから見れば、本作はAIRと同じ高さに、別の角度から登っておる。

テーマの面でも完成がある。AIRの「家族」は、血の繋がらない母娘(晴子と観鈴)が選び取る関係じゃった。本作はそれを「家族をゼロから作っていく」物語へ展開した。朋也が渚と家族を作り、渚を失い、汐との父子を作り直し、最後に町ごと家族を取り戻す。AIRが「家族をどう失うか」を書いたなら、本作は「家族をどう作るか」を書いた。東浩紀という評論家が、AIRを「父になれない」物語、本作を「父になっていく」物語として対比したのは、この点を正確に突いておる。Keyの思想が「喪失の肯定」から「再生の肯定」へ転換した、その分岐点が本作じゃ。

業界全体への影響も見ておこう。本作の最大の功績は、恋愛ADVに「卒業後」「子育て」「家族の死と再生」という主戦場を開いたことじゃ。それまで学園恋愛で完結していたジャンルに、「人が家族を作り、失い、続けていく」という長い時間軸を持ち込んだ。後の泣きゲーやドラマ性重視のADVが、この「結ばれた先」を描けるようになったのは、本作が道を通したからじゃ。一作品がジャンルの射程を一気に広げるのは、長く生きていてもそう何度も見るものではない。

そして全年齢ヒットという事件じゃ。本作はKey初の全年齢主力作で、10万本を超え、女性ファンの異例の流入を生んだ。それまで「エロゲー」という枠で語られていたこの種の物語が、性描写を外しても——いや、外したからこそ——もっと広い層に届くと証明した。後にこの作品が京都アニメーション版を経て「CLANNADは人生」とまで言われるようになったのは、この全年齢化が下地にある。エロゲー発の物語が、ジャンルの壁を越えて一般の物語として記憶された——その大きな一例が本作じゃった。これも歴史じゃ。

「メグメル」と「小さなてのひら」——詩が告げていたもの主題歌のことも触れておこう。本作のオープニングは「メグメル」じゃ。冒頭の詩はこう始まる。「透き通る夢を見ていた 柔らかい永遠」。そして「重ねた手と手の中に 小さな未来が見えたら」と続く。当時のわしは、これをただ柔らかな少年少女の歌として聞いておった。じゃが本編を通すと、この「重ねた手」「小さな未来」という詩語が、汐という「小さな未来」そのものを先に告げておったと分かる。そしてTrue Endで流れるのが「小さなてのひら」じゃ。「小さな手にも いつからか 僕ら 追い越してく強さ」「小さな手でも 離れても 僕らは この道 行くんだ」——これは汐の小さな手のことじゃ。親が子に追い越されていく、それでも同じ道を行く、という親子の歌。汐の「…じぶんであるく」「…パパといっしょにあるく」という台詞と、この歌詞は完全に同じことを言っておる。麻枝准が作詞作曲したこの一曲は、本作の親子のテーマをそのまま畳み込んでおった。

反響のことも史的に残しておこう。本作の楽曲群は、後の京都アニメーション版で更に広く知られることになった。特に劇中歌「だんご大家族」は、ゲーム・アニメ双方でカルト的な人気を獲得し、本作を象徴する一曲としてインターネット上のあちこちで歌われ、語られた。渚が無防備に「だんごっ、だんごっ…」と歌い出すあの場面が、作品の外へ持ち出されて、本作を知らぬ者まで口ずさむ歌になった。「だんご大家族」が「みんなみんなあわせて 100人家族」「町をつくり だんご星の上 みんなで笑いあうよ」と歌うのは、まさに本作の「町も人も、みんな家族」というテーマそのものじゃ。一作品の劇中歌が、テーマを背負ったまま作品の壁を越えて一人歩きする——これは長く生きていても珍しいことじゃ。本作が業界史に残したものは物語だけではない。歌が物語のテーマを運んで広がっていく道筋を、本作は確かに通しておった。

9.0——三部作の到達点。ただし完璧ではない

最後に判決を下すとしよう。

汐の「…パパ…だいすき…」は残った。渚の死も残った。秋生の「この町と、住人に幸あれ」も、町ごと家族を取り戻すという構造の大きさも、22年経って削れておらん。これらは時間に削られなかった部分じゃ。本物はこういうものじゃな。22年経って読み返して、わしはまた二度動かされた。500年生きておると、二段の喪失が両方来るのは珍しい。

削れなかった部分の隣に、削れた部分もある。True Endの論理の隙間、ことみルートの水準の浮き、学園編各ルートの強度差。これらは本作の野心が大きすぎたがゆえの綻びじゃ。本作の弱点は「足りなかった」というより「全部を等しく届けきれなかった」というものじゃ。それだけ広いものを狙っておった証拠でもある。

業界史の中での位置付けは動かない。Key三部作の到達点、KANONの「奇跡」とAIRの「喪失」を統合した一本、恋愛ADVに「卒業後」という主戦場を開いた作品、そしてエロゲー発の物語が全年齢で一般に届くと証明した一本。少なくとも次の50年は確実に残る。発売から22年、移植が繰り返され、京アニ版を経て「人生」とまで呼ばれ、新規プレイヤーが今も流入し続けておる——時間がこの作品を選び続けておる、という事実が、何よりの審判じゃ。

それが9.0の意味じゃ。10に届かなかった理由は、True Endの論理を情緒で押し切った設計の甘さと、学園編各ルートの強度のばらつきによる。全部を等しく届けきれていたら10じゃった。じゃが届かせきれなかった部分があるからこそ、9.0じゃ。本作の汐の場面と、町ごと家族を取り戻すという発想だけで言えば、これはKey三部作の到達点にふさわしい一点じゃ。歴史を作り、時を超えた作品にふさわしい数字じゃ——と、わしは判決を下した。