氷室栞のレビュー — EVE burst error

氷室栞
氷室栞
設計を読む
8.7/10
8.7 / 10

二人の探偵が別の事件を追っているように見えて、実は同じ一つの構造の中で動いている。プレイヤーだけがそれを俯瞰できる——この構造の作り方が1995年の時点で完成している。

C's wareが1995年にリリースした二主人公マルチサイト型ADV。私立探偵・天城小次郎と1級捜査官・法条まりなが、それぞれ別の事件を追いながらやがて一つの真相に合流する。本作の巧さは「二視点に分けたこと」そのものではなく、二視点に分けたことで初めて成立する情報の階層を物語の骨格に組み込んでいる点だ。一つの名前が複数の所有者を持つ、一人の依頼人が複数の層を持つ、一つの過去が複数の解釈を許す——そういう情報の入れ子が、A・Bルートを並走させることで段階的に解けていく。後発作品が散々やってきた手法の祖型が、ここに既にある。

スコア詳細

伏線と回収 10
ルート・分岐設計 10
プロット構成力 9
エンディングの満足度 9
テーマ・メッセージ性 8
テンポ・緩急 7

構造を見たくてプレイした作品

後発作品からの参照が多い作品は、一度は構造として原典を見ておきたくなる。

C's wareが1995年にリリースしたPC-98アダルトADV。シナリオ・ゲームデザイン・プログラムは剣乃ゆきひろ(後の菅野ひろゆき)。発売から30年経った今もなお「90年代ADVの最高峰の一つ」「マルチサイトシステムの金字塔」として名前が挙がる作品だ。後発のザッピング系作品の作者たちが「影響を受けた」と公言しているのも以前から知っていた。一度は構造として原典を見ておきたい——そういう動機で手を取った。

舞台は東京湾沿いの架空の港湾都市・セントラル・アベニュー。私立探偵・天城小次郎と、警察庁某機関の1級捜査官・法条まりな。二人が別々の事件——小次郎は中華系成金から依頼された奇妙な絵画の捜索、まりなはエルディア共和国大使の娘の身辺護衛——を追いながら、互いの存在を知らないまま、同じ一つの真相に近づいていく。プレイヤーはAルート(小次郎視点)とBルート(まりな視点)を行き来して、両方の情報を統合することで初めて全体像を掴む。

プレイ前から「視点を分ける物語」という骨格は知っていた。プレイして驚いたのは、視点を分けたことそのものよりも、視点を分けたことで初めて成立するように設計された情報の階層だった。そこの話だ。

「視点を分けただけ」ではない——情報が分割されている

本作のマルチサイト構造の核は、視点の交換そのものではなく、情報の交換にある。

小次郎の視界には映らない人物が、まりなの視界には映っている。まりなが知らない事実を、小次郎は既に握っている。二人の探偵は同じ街で動いていながら、互いの調査結果をリアルタイムでは共有できない。プレイヤーだけがその両方を見ている。

巧いのは、片方のルートで「軽く流される情報」が、もう片方のルートで「決定的な意味を持つ情報」として再登場することだ。例えばAルートで小次郎が事務所に拾った金髪の小娘——プリンと呼んで頭痛薬を買いに走ってやるだけの相手——が、Bルートのまりな視点に切り替わると、ある場面で本部長の発する一言と接続して、序盤で見た小娘の意味が遡って変わる。「あの場面のあの人物は誰だったのか」が、別ルートの一行で確定する。この種の遡及的な意味の更新が、本作のあらゆる場面に仕込まれている。

つまり本作のプレイヤーは、二つのルートを順番に消化するだけではなく、片方を進めながら「今読んでいる場面が、もう片方で見たどの場面と接続するか」を頭の中で常に再構成している。この能動的な情報統合がプレイ体験の中核だ。これが「マルチサイトの本質」だ。同じ時間軸を二度なぞるのではなく、二度なぞって統合することで初めて成立する情報構造を組んでいる。

正直、こんなことを1995年の時点でやっていたのか、という驚きが何度もあった。後発作品から参照され続けている理由がよく分かる。

名前と人物の「層」——一つの記号が複数の意味を持つ

本作で最も唸ったのは、固有名詞の所有関係の作り方だ。

本作には、複数の人物にまたがって所有される名前がいくつかある。最初は「ある暗殺者の代名詞」として登場した呼び名が、後に「その代名詞を作った個人」を指すようになり、さらに後に「その代名詞を僭称した別の存在」を指すようになる。順序がある。第三の意味は第一・第二の意味があったからこそ機能する。一つの名詞の中に、情報の植え付けと回収が三層に折り畳まれている。

同じことを、本作は「依頼人」というレベルでもやっている。物語の冒頭で小次郎に絵画捜索を依頼する人物の正体は、単純な「偽装」では済まされない複数の層を持っている。本物と偽物がいる、というだけではなく、本物の背後に「故人」がいて、その故人の遺産が偽物に依頼を出させている——という入れ子だ。小次郎は物語の最初から、一つの名前の偽装に騙されて動かされている。彼が追っているものは表面上は「クズ品の絵画」だが、その背後には全く別の意味が隠れている。

具体的に何の名前か、何の依頼人かは、ここでは書かない。プレイ前にこれを書いてしまうと、プレイ中の「あ、繋がった」という瞬間を全部潰してしまうから。ただ、これだけは言える——一つの記号が複数の意味を順番に獲得していく、その情報設計の精度において、本作は1995年の作品とは思えない仕事をしている。

エンディングの設計——「Try again」表示の正体

本作のエンディング設計には、初見プレイヤーが必ず一度誤読する仕掛けが置かれている。

AルートとBルートをそれぞれ完走すると、ある英文ナレーションが表示される。「Try again」という言葉が含まれていて、初見ではこれをバッドエンド宣告だと受け取る。「もう一周してね」というよくあるシステムメッセージだ、と。

違った。あの一行は、ロック解除条件の提示だった。A・B両方を終えてから初めて開く第三の領域があって、そこを走らせると、A・B両ルートで見ていた場面の意味が遡って書き換わる。「もう一周」が「もう一周することで前の二周の見え方が変わる」型の仕掛けに繋がっている。後発のADVが何度も使った手法の——おそらく最も古い実装の一つだ。

これを最初に見た時、メモを取り直した。普通のザッピングだと思ってプレイしていたから、最初の評価が浅かった。設計者は、プレイヤーが「Try again」を一度バッドエンドとして受け取ることまで計算に入れている。誤読させて、その誤読を後から解除する——この設計手順が、もう一周目の体験を変える。巧い。

小次郎とまりな——二人の主人公の対称性

主人公の造形について。

本作の主人公は小次郎とまりなの二人だ。よくあるダブル主人公作品の落とし穴は「片方が立っていてもう片方が空気」になることだが、本作はそれを上手く回避している。

小次郎は軽口・自虐・男尊女卑風の冗談で武装するタイプだ。「俺様」の一人称で独白するし、風呂上がりに女に遭遇して慌てるシーンが何度もある。一見すると、ふざけた探偵に見える。だが彼の本質は「弱者を放っておけない」という一点にあって、それが物語の局面ごとに静かに出てくる。拾った身寄りのない小娘に自分のベッドを譲ってソファで寝る、肩を撃たれて庇った相手のために体を張る——派手な見せ場ではなく、こうした地味な選択の積み重ねで彼の人物像が立つ。

まりなは表面的にはサバサバとした凄腕エージェントだが、「私って、ほれっぽいのかな」と自分でこぼすように、内面は寂しがり屋で恋愛体質だ。仕事中は1級捜査官の顔、幼馴染の前では昔の顔、上司の前では道化、惚れた相手の前では女——この四つの顔を使い分けながら一つの人物として崩壊しない。本部長を人質に取る茶番劇を演じる場面なんかは、まりなというキャラの「公僕としての堅さと、人間としての茶目っ気」を同時に成立させる、巧い造形だ。

二人を同じスケールで描いているから、A・B両ルートを並走しても片方が霞まない。これは設計上の成功だ。

惜しい点——序盤の散発性と、終盤への情報集中

弱点も挙げておく。

第一に、序盤の情報出力が散発的すぎる。冒頭の絵画依頼、ルポライターのの登場、外国人学校教師シリアとの遭遇、図書館での氷室恭子との接触——これらが「一つの物語に向かって積み上がっている」という確信が、プレイ序盤ではプレイヤーに渡らない。マルチサイトの真価が見えるのは、ある程度進んで視点を切り替えた瞬間だ。それまでは「軽口の多い探偵が女に振り回されている話」に見えてしまう。設計上の必然はあるが、序盤離脱のリスクは確かに高い。

第二に、終盤に情報密度が偏っている。ある時点まで散発的に提示されてきた謎が、終盤の特定区間で一気に解明される。情報量としてはここが最も濃いが、各情報がプレイヤーに到達するタイミングがもう少し前倒しされていれば、終盤の納得感はさらに深かったはずだ。テラー編の情報量が足りないという感想がファンの間で長年語られているのは、この情報配置の偏りに対する反応だと思う。

もったいない。両方とも、設計の方向は間違っていない。ただ、各情報のプレイヤーへの到達タイミングがもう少し滑らかであれば、満点に近づいた。9.5以上は固かったはずだ。

8.7——構造を見るために、一度はプレイしておくべき作品

8.7をつけた理由はこうだ。

マルチサイトという仕掛けの中に、複数の情報の階層を折り畳んでいる。一つの名前が複数の所有者を順番に持つ、一人の人物が複数の身分を同時に持つ、一つの過去が複数の解釈を許す——これらが、A・Bの二視点を行き来することで段階的に解けていく構造になっている。プレイヤーが俯瞰しなければ意味が確定しない情報構造を、1995年の時点で一本の物語に編んでいる。

満点にしない理由は、序盤の散発性と終盤への情報集中の二点だ。これが構造的に解消されていれば、満点圏にあった。だが現状でも、設計の方向性に妥協はない。8.7という数字に、それを乗せた。

後発の作品でザッピングを使う作品、視点交換で意味が変わる作品、複数周回で前の周の見え方が変わる作品——これらの原型を、自分の目で確認しておきたい人にはプレイしておく価値がある。「先に組まれていた」という事実を、自分の手で確認できるから。

ネタバレあり版で、テラーという名前の所有関係、孔という依頼人の層、真弥子という登場人物の構造、そして「Try again」というロックの正体について全部書いた。プレイ済みの人は、もう一本のほうを読んで欲しい。