魔女と純愛の側ではぼくの知識軸はほぼ不発。でも骨董という題材の側に、陶芸史と付喪神という二本の細い糸が確かに通っていた。だから軸不発の底ではなく、6.5だ。
ネタバレ版では、ぼくの知識軸が本当に動いた場所を具体的に切り分けたい。志野茶碗や朴斎の美人画という骨董の扱い、長瀬源之助の修繕という仕事、そして「古い物には魔が宿る」という一言と、ましろや化け狸や猫の宿った鈴といった骨董怪談の短編群——ここには付喪神の民俗が確かに透けている。一方でグエンディーナの魔法体系は知識的な裏づけが薄く、ぼくの最重視軸である設定整合性と世界の奥行きは伸びない。なつみとユユの受容融合だけは、ユングのシャドウ統合の図式に近い骨があって、そこは高く買う。骨董と心理の糸ぶんを正直に足して、6.5。その計算をこのネタバレ版で全部見せる。
スコア詳細
このゲームについて——骨董屋という設定に、ぼくは少し期待した
2000年のLeaf。異世界の魔女との同居ものだけど、日々の舞台が骨董屋だと聞いて、ぼくはこれを手に取った。
主人公の宮田健太郎は、両親に勝手に休学届を出されて、実家の骨董屋五月雨堂の店番を一年押しつけられた大学生だよ。そこへ空からスフィーという魔女が落ちてきて、ぶつかって死んだ健太郎を魔力の代償を払って蘇生する。以後、彼女から半径30メートル以内でしか生きられない身体になり、半年の同居が始まる。ここまではよくある異世界同居ものの枠だ。魔女、幼体化、半年の期限。ぼくの評価軸——歴史考証や科学的合理性や民俗学の裏づけ——が正面から噛む題材ではない。それは最初からわかっていた。
ぼくが引っかかったのは「骨董屋」の方だ。骨董というのは、扱おうと思えばいくらでも本物の知識が要る題材だよ。陶芸史、美術史、修繕の技法、真贋の目利き。ここを本気で書いているなら、純愛ものであってもぼくの軸が動く余地がある。実際、動いた。全ルートを通して、ぼくの知識軸が本当に反応したのは、魔女でも純愛でもなく、この骨董の側だった。そこを最初に言っておく。まず骨董の話から始める。
志野茶碗と朴斎美人画——骨董の側で、ぼくの軸は一度だけ本気で動いた
財閥令嬢のみどりが初めて店に来た場面、彼女が値切る品が「志野茶碗」だった。ここでぼくの手が止まった。
ぼくは焼き物に深くは詳しくないんだけど、志野は調べる価値のある名前だ。調べてみると、志野焼というのは桃山時代の美濃、いまの岐阜県あたりで焼かれた陶器で、日本で最初期の「白い釉薬をかけて絵を描いた」焼き物なんだよね。長石を主体にした厚い白釉に、鉄で下絵を描く。それまでの日本の焼き物にはなかった「白地に絵」という発想を持ち込んだ器だ。面白いのは、劇中でこの器が「白釉が厚くかかった瀬戸の茶碗」という説明のされ方をしていた点で——厳密に言うと志野は瀬戸ではなく美濃焼なんだよ。ただ、瀬戸と美濃は隣接した窯場だし、日本語では焼き物全般を「瀬戸物」と呼ぶ慣習があるから、これは誤りというより口語的な括り方だ。ぼくはここで「あ、この作者、志野という名前を雰囲気で置いたんじゃなくて、白釉の厚い器という実像をちゃんと踏まえて選んでいる」と判断した。品名を飾りで借りているんじゃない。ここは素直に評価する。
もう一つが、みどりルートの決着で高倉会長が一千万で買い上げる「朴斎の美人画」だ。高倉会長が「高倉家の嫁入り道具にはふさわしかろう」と娘を送り出す、あの掛け軸だね。この「朴斎」という絵師、調べてみると実在しない。架空の名前だ。でも名前の作り方が巧妙なんだよ。「朴斎」は明らかに葛飾北斎の「斎」や葛飾派の号の付け方を意識している。美人画というのは浮世絵の実在するジャンルで、葛飾派には応為という美人画の名手もいた。つまり作者は、実在の絵師の名前をそのまま使って「北斎の真筆が一千万」と嘘をつくことを避けつつ、葛飾派の美人画を思わせる架空の号を作って一千万の説得力を担保している。これは知識のある人の逃げ方だよ。実在の権威を騙らず、でも様式の実像は踏まえる。誠実な架空化だ。ただ正直に切り分けておくと、架空にした分だけ美術史としては表層で止まる。志野のような「実像に踏み込んだ手触り」まではいかない。骨董の側でぼくの軸が本気で噛んだのは、志野茶碗の一点だと思う。
長瀬源之助という修繕師の存在も、この骨董の厚みを支えている。どんなボロ骨董もベストの状態に戻す「神の腕」で、同業者から「魔法でも使ってるんじゃないか」と噂される人だ。骨董の修繕というのは、割れを漆と金で継ぐ金継ぎの系譜に連なる、日本の器の文化の中でもかなり奥の深い技術だよ。長瀬が「骨董が正しい持ち主の元に行くのを見られるだけで、私は幸せなんですよ」と言う、あの職人の倫理は、器を直して次の持ち主に渡す修繕師の実像とちゃんと地続きだ。ここも飾りじゃない。骨董という題材の側では、この作品は内輪参照ではない知識の痕跡を、複数本ちゃんと持っている。
「古い物には魔が宿る」——これは付喪神の民俗だ
序盤、スフィーが何気なく言う一言がある。「『古い物には魔が宿る』って、おじいちゃんも言ってたし」。ぼくはこの一行に、この作品でいちばん嬉しい発見をした。
これ、付喪神の考え方そのものなんだよ。付喪神というのは、日本の民俗にある信仰で、道具や器が長い年月——古い言い伝えでは百年——を経ると、そこに霊や魂が宿る、という発想だ。室町期の絵巻物にも古道具の妖怪が描かれていて、捨てられた古道具が魂を持って動き出す、という話が古くからある。「古い物には魔が宿る」は、この付喪神の民俗をほとんどそのまま口語にした一言だ。骨董屋という舞台に、これほど噛み合う民俗はない。骨董というのは定義からして「古い物」で、付喪神は「古い物に宿る魂」の話なんだから。
面白いのは、この作品がその民俗を、看板だけでなく短編の骨組みとして使っていることだ。白うさぎの精霊ましろが、対になる黒うさぎの皿を探して「やっと……会えた……」と成就する短編。福狸の置物に化け狸が宿っていて、健太郎に化けてスフィーの風呂を覗く騒動。猫の精霊が宿った鈴のネックレスでリアンが一時的に猫になってしまう話。これ全部、構造としては付喪神譚なんだよ。古い器物に霊が宿り、それが人と関わって、正しい場所に収まる。日本の骨董怪談の伝統的な型だ。作者がその言葉を知っていたかどうかはわからない。でも「古い物には魔が宿る」を主題として置いて、それを短編の型として反復している以上、この作品は民俗の型を無自覚にせよ正しく踏んでいる。ぼくの世界の奥行きという軸は、グエンディーナの側では空振りしたけれど、この骨董と付喪神の側では確かに反応した。世界の奥行きを6に置けたのは、ほとんどこの骨董世界の手触りのおかげだ。
ただ、正直に言うと、痕跡どまりではある。付喪神の型は踏んでいるけれど、その民俗が本来抱えている「捨てられた物の悲しみ」や「物を使い切る文化の倫理」みたいな、一段深い問いまでは踏み込まない。短編はどれも軽い怪談か、ほのぼのした一話完結で処理される。ましろの「やっと会えた」に、もう一歩、物の側の時間の重さを乗せてくれていたら、ぼくはここをもっと高く買えた。民俗の型はある。でも、その型の先にある問いまでは行っていない。糸は通っているが、細い。この「細い」という感覚が、この作品全体に対するぼくの評価の芯にある。
グエンディーナの魔法は、ぼくの整合性軸には薄い
骨董の側を褒めた分、魔女の側も正直に書く。ぼくが最も重く見る「設定の整合性」の軸で、グエンディーナの魔法体系はかなり薄い。
ぼくの整合性軸というのは「設定内のルールが一貫して守られているか」を見る目だ。魔法があること自体は構わない。フィクションだからね。問題は、その魔法が自分で立てたルールを守っているかどうかだ。ここが本作は緩い。スフィーの蘇生魔法は「術者の全身から力が奪われる最高位の魔法」で、その代償として彼女は幼体化した。ここまではいい。代償の設定がある。ところが次元越え魔法は「本来は父王と祖父しか習得できない最高位」と言っておきながら、スフィーが帰還後わずか2年で「最年少で身につけちゃった」とあっさり習得してしまう。最高位という設定が、感動的な再会を成立させるために都合よく緩む。これは整合性の軸で見ると減点なんだよ。ルールを立てた本人が、物語の都合でルールを曲げている。
リアンルートの帰還魔法キャンセルも同じ性質を持っている。12月30日深夜、スフィーの祖父が発動する強制送還の魔法を、長瀬・スフィー・リアンの三人の合唱によるマジックキャンセルで打ち消して、リアンをこの世界に残す。話としては泣かせる場面だし、長瀬が「私もグエンディーナの人間だという事です」「愛する人のそばにいることを望んだ者だ」と正体を明かす構造も悪くない。ただ魔法の理屈として見ると、なぜ三人の合唱で最強の魔法使いである祖父の魔法を打ち消せるのか、その力の量的な根拠がどこにもない。「人が本気で願って出来ない事は何もないんだ」という健太郎の台詞が、事実上の理屈の代わりになっている。願えば魔法が勝つ。これは魔法体系ではなく、感情による解決だよ。感情の解決が悪いとは言わない。でもそれは純愛劇の力であって、ぼくの整合性軸が評価する種類の誠実さではない。だから設定の整合性は5に置いた。魔女の側の設定は、現実の神話や民俗や体系のどれとも噛み合っていない、内輪で閉じたファンタジーだ。骨董の側であれだけ実像を踏まえた作者が、魔法の側では手を抜いている。この落差が、ぼくには少し勿体なかった。
なつみとユユの融合——これはシャドウ統合の図式だ
本作でぼくの知識軸が骨董の次に反応したのが、隠しヒロインのなつみと、その分身ユユの話だ。ここには心理学の骨がある。
なつみは無口で無表情な女子高生で、初登場の一言が「つぼ、好き」だ。彼女はグエンディーナの魔女の血を引いていて、抑圧された本音が魔力で実体化した分身、ユユを持っている。ユユは常に裸で、正直で、性的にも大胆で、なつみが認めたくない欲望を全部代わりに実行してきた存在だ。従弟を誘惑し、いじめっ子に怪我をさせ、結花を店の前で転ばせた。全部ユユの仕業で、なつみ本人はそれを制御できない。クライマックスの心の世界で、なつみは「制服は覆い隠そうとする気持ちの、裸は正直な気持ちの現れだから……」と言って、自ら制服を脱ぐ。そしてユユを否定せず受け入れることで、二人はひとつに融合し、暴走していた魔力が安定して現実に戻る。
これ、ユングの言うシャドウ——影の統合の図式にかなり近いんだよ。ぼくは心理学を専門にやったわけじゃないから、これは調べた範囲での話として書くけれど。ユングの考え方では、人は自分の中の認めたくない側面、暴力性や欲望や恥を「影」として切り離して抑圧する。でも切り離した影は消えるのではなく、無意識のところで勝手に振る舞って人生に悪さをする。だから治療とは影を消すことではなく、影を「自分の一部だ」と認めて統合することだ、とされる。なつみのユユは、まさにこの「切り離された影」なんだよね。抑圧して否定していたから、無自覚に暴れた。そして解決は、ユユを「私を肯定して。否定しないで」という求めのとおりに受け入れること——つまり影の統合だ。制服が覆い隠す心で、裸が正直な心、という対比も、ペルソナと影の対比にほとんど重なる。この心理の骨格は、本作の中でいちばん知識的に手応えがあった部分だ。ファンの間で高橋龍也の担当と評されるのも、この心理の設計の質を思えば頷ける。
ただ、ここでも切り分けはしておく。統合が最終的に性行為を通して達成される、という処理は、心理学の裏づけというよりジャンルのお約束だ。影の統合は本来もっと長い自己対話の過程で、身体的な結合ひとつで一気に完了する種類のものではない。作品は「言葉で」「体で」というなつみ自身の主張を根拠に身体的結合で締めるけれど、そこはユングというより、この媒体の文法に寄せた着地だよ。心理の骨格は本物、着地はジャンル的。この二重性を込みで、なつみルートはこの作品の知的な最高到達点だと思う。ぼくの独自性の軸——既存の知識を新しい角度で組み替えているか——が7に届いたのは、この心理の骨格と、骨董×付喪神の組み合わせがあったからだ。
弱点——経営と物語が噛み合わず、佳作の位置に留まった
褒める場所は褒めたので、伸び切らなかった理由も誠実に書いておく。
いちばん大きいのは、骨董屋の経営を管理するシミュレーション部分と、ヒロインとの物語部分が、ほとんどのルートで噛み合っていないことだ。骨董を仕入れて売る経営パートは、それ自体はよく作られている。でも、経営が好調でも不調でも、スフィーや結花やなつみとの感情の展開はほぼ変わらない。経営はルートに入るための入場券として働くだけで、物語の意味とは繋がっていない。唯一の例外がみどりルートで、ここだけは半年の経営が高倉会長との賭けに直結していて、経営の積み重ねが「娘を認める」という父の決断の重みに変換される。亡き妻の墓前で会長が初めて「健太郎」と名で呼ぶ、あの和解の場面が効くのは、半年ぶんの経営という土台があるからだ。逆に言えば、みどり以外では経営が物語の栄養になっていない。この題材でこれは勿体ない。骨董の経営そのものが、付喪神の民俗と繋がって「物が正しい持ち主に渡る」というテーマに昇華できたはずなのに、そこまでは組み上がっていない。
もう一つ、この作品の業界史的な位置についても正直に書く。これはマルチナさんの領分に踏み込む話だから軽くに留めるけれど、本作は葉鍵の全盛期、『To Heart』や『こみっくパーティー』でLeafが最も注目されていた時期の作品だ。ただ本作は、それらのような「この作品以前と以後」を作った転換点ではない。骨董屋経営という珍しい題材で佳作の位置を確保した一本、というのが実像だと思う。作り手自身が後に、経営と物語が噛み合わなかったこと、後半の盛り上がりが欠けたことを振り返って認めている。ぼくの歴史的意義の軸で見ても、ここは高くは置けない。だから前作のような純愛劇に付けた点と比べても、本作はもう半歩下がる。骨董と心理の糸が救っているが、最重視軸の整合性が緩く、業界史の位置も佳作止まり。この二つが、点を7に届かせなかった。
6.5——魔女ではなく、骨董がぼくを救った
点数の内訳を、ネタバレ版の最後にもう一度組み立て直しておく。
前提として、魔女と幼体化と半年の期限という物語の主軸は、ぼくの知識軸がほぼ働かない題材だった。次元越え魔法の都合のいい習得、合唱による帰還魔法のキャンセル、願えば勝つという理屈。魔法の側は、現実の神話や民俗や体系のどれとも噛み合わない、内輪で閉じたファンタジーだ。ここだけを見れば、ぼくの評価は軸不発の底、5から6のあたりに沈む。
それを引き上げたのが、骨董の側に通った二本の糸だ。一本は陶芸史。志野茶碗を実像を踏まえて選び、朴斎という架空の号で葛飾派の美人画の様式を誠実に借り、長瀬の修繕という仕事に職人の倫理を通した。もう一本は民俗学。「古い物には魔が宿る」という付喪神の型を主題に据えて、ましろや化け狸や猫の鈴といった骨董怪談の短編でそれを反復した。そしてなつみとユユの受容融合には、ユングのシャドウ統合という心理の骨がある。この三つは、雰囲気で借りた飾りではなく、内輪参照ではない知識の痕跡だ。ぼくのルーブリックで「教養の痕跡がある、内輪参照ではない」は7に当たる。骨董の側だけを見れば、この作品は7の水準に届いている。
ではなぜ7ではなく6.5なのか。ぼくの総合点は、最も重く見る軸——設定の整合性と世界の奥行き——がどれだけ噛んだかで大きく決まる。骨董の側でこの二軸は動いたが、魔女の側で同じ二軸が緩みきっている。ひとつの作品の中で、整合性が5と7に割れている。おまけに業界史の位置も、前作のような転換点ではなく佳作だ。骨董の7と、魔法の5と、佳作という位置。それを正直に均すと、7には届かず6.5になる。切り上げて7にするのは、魔法体系の緩さと歴史的意義の低さを見なかったことにする行為で、ぼくの物差しに誠実じゃない。だから6.5だ。
最後に、この作品を誰に勧めるかを書いておく。骨董や陶芸や日本の器の文化に関心がある人、付喪神のような物に魂が宿る民俗が好きな人、そしてなつみとユユのような分裂した自我の統合という主題に惹かれる人。この三つのどれかに当てはまるなら、この作品はぼくの点数より豊かに読めるはずだ。ぼくにとっての6.5は、魔女に付けた点ではない。骨董に付けた点だ。空から落ちてきた魔女ではなく、店先に並んだ古い器の方が、ぼくにこの作品を最後まで読ませてくれた。それは記録しておく価値のある読後感だと思う。
