1997年、ここから何かが始まろうとしていた。わしには見えたのじゃ。
Nexton傘下のTacticsが1997年に問うた一本じゃ。麻枝准と久弥直樹がここで書き、後にTacticsを離れてKeyを立ち上げ、業界を変えた。「うそだ……信じない…」という一語が持つ意味——郁未が意志の力で月(FARGO創設者)に抗い、己の罪を認めずに前へ進む——この構造は、Key的主題の最初の形じゃ。少年の両腕切断と消去、葉子の「私の名前は、鹿沼葉子です」という解放の言葉——MOON.が到達した高みは、30年経った今も削れておらん。7.8は「良作であり、骨のある一本」という判定じゃ。
スコア詳細
1997年11月、Tacticsの「心に届くAVG」が問うたもの
わしはこの作品を1997年の発売直後にプレイしておる。500年生きてきて、Tacticsというブランドが次に何を出すか確かめるのは当然の仕事じゃった。
主人公・天沢郁未、16歳。FARGO宗団の閉鎖施設へ、母の仇を討つという動機で潜入する。同居人の「少年」と奇妙な関係を深めながら、晴香・由依と施設の謎へ踏み込んでいく——このレビューでは、全真相を含む形で話す。
当時も今も、この作品の企てには一本の筋が通っておる。閉鎖空間、宗教、母と娘、罪と記憶。テーマの密度は、1997年の市場で群を抜いておった。荒削りな部分は否定せぬ。しかしMOON.が到達した場所は、至高じゃ。
当時の記憶——1997年、あの施設の空気
1997年11月。PC-98からWindowsへの移行期。エロゲーというジャンルが急激に表現の幅を広げていた時代じゃ。
Tacticsというブランドは、その時点でまだ「大きな名前」ではなかった。わしの目には、ただ「野心のあるブランド」として映っておった。「心に届くAVG」というジャンル標榜は——当時のエロゲー市場で、それは宣言じゃ。恋愛ADVの文脈で「心に届く」と言い切る。普通の判断ではない。
プレイして最初に感じたのは、閉鎖空間の重さじゃった。FARGO施設というのは、単なる舞台装置ではない。「外に出られない」という事実が、郁未のすべての選択を制約し続ける。500年生きてきてわかることじゃが、物語の舞台に「逃げられない」という条件を課すと、人間の本質が剥き出しになる。宗教施設という設定は、その条件を最大化しておった。
潜入初日、同じく潜入者の晴香が郁未に言う。「FARGOに入信しようなんて気のフレた連中が意志を持った目なんてしてるわけないもの」——この台詞一本で、晴香という人物の観察眼と郁未の格が同時に立ち上がる。1997年の段階で、こういう幕開けができるシナリオライターは少なかった。
そして序盤の由依の台詞——「思い出さないままいた方がいい真実って、あると思いませんか?」。この問いが終盤で反転することをわしは知っておる。知った上で読み直すと、この一行はプロローグから物語の核を仕込んでおった、と見える。これが当時のわしへの最初の衝撃じゃった。
再プレイして——「うそだ」という一語の重さ
30年ぶりに読み直した。全ルートをもう一度通った。
真エンドと「うそだ」クライマックス——月(FARGO創設者)が郁未に真実を突きつける。「郁未の母親を殺したのは、キミ自身なのだよ」。
6年間失踪して戻ってきた母が、半年後に怪死する。郁未は「母は殺された」と信じて施設へ来た。しかし真実は逆じゃ。郁未自身が生まれながらに「不可視の力」を宿しており、「母との穏やかな日々を失いたくない」という正の意志が邪の意志を呼び覚まし、郁未の力が母を殺してしまった——その記憶を封じたまま、郁未は「復讐」という動機を自分に信じ込ませていたのじゃ。
この構造は、プロローグから仕込まれておった。クリームシチューの記憶——「あの特製クリームシチューの味は二度と忘れることはないだろうから」という郁未の独白。後から読み返すと、この台詞の意味がまったく変わって見える。「二度と食べられない」のではなく、「取り返せない日常」への哀惜じゃ。しかもその日常を奪ったのは郁未自身——という構造が、プロローグにすでに埋め込まれておった。今見ても恐ろしいほど丁寧な仕込みじゃ。
そして——分岐選択「うそだ」。月の言葉を受け入れず、意志の力で抵抗することを選ぶ。「うそだ……信じない…」——これが真エンドへの扉じゃ。なぜ「認める」ではなく「信じない」という選択が真エンドに繋がるのか。
……おお。まだあった。今読んでも、これはまだある。
「信じない」は逃避ではない。「真実だとしても、それがすべてではない」という郁未の意志の発露じゃ。母を殺したかもしれない——だが、少年が両腕を切断して郁未を救ったことも真実じゃ。晴香が義兄・良祐のために泣けない夜も真実じゃ。由依が「思い出さないままいたほうがいい真実なんて……実はないんじゃないですか」と言えるようになったことも真実じゃ。その全部を受け入れた上で、月という「悲劇の傍観者」を拒絶する——その意志が「うそだ」という二文字に宿っておる。麻枝准が後のKey作品で繰り返す「意志の力」「心の強さ」というテーマの最初の形が、ここにある。
少年の両腕切断・消去終盤、少年が両腕を切断し、郁未を救い、消去される。
「キミだから助けたんだよ」——これが、少年が郁未に告げる言葉じゃ。種族解放という使命を捨てて、郁未個人のために動いたことへの告白。
「さようなら、郁未」——消去される直前の最後の言葉。
少年は名前がない。素性もない。ただ「人間ではない種族」として施設に囚われ、郁未と出会い、郁未のために消える。再プレイして、この場面の設計の冷静さに驚いた。感情を煽るためのギミックを極力使わず、事実だけを積み上げる。「さようなら」という三文字が力を持つのは、それ以前のすべての描写が蓄積されているからじゃ。30年経ってもこの場面は削れておらん。
施設中盤、郁未と少年が関係を持つ場面がある。「これが人と人との交わり……私が求めていたもの」という郁未の独白——孤独な潜入者が、閉鎖空間の中で初めて感じた繋がり。このHシーンは単なるエロ描写ではない。郁未の孤独と、少年の「異種族であっても郁未に寄り添う」という意志が交わる場面として、本編と正しく接続されておる。文章の質も、1997年の水準としては誠実じゃ。
「参ったぁ」——陵辱シーンのもう一つの顔施設中盤の陵辱シーンには、もう一つの「伝説」がある。
高槻が晴香を陵辱しながら絶叫する。「参ったぁっ!俺は参ったぁぁっっ!なぜなら気持ちよすぎるからだあっ!おまえのあそこの肉はなんて気持ちいいんだぁっ!」
……おぬし、これは30年経った今でも記憶に焼き付いておるのじゃ。
この台詞は文学的な価値があるとは言えん。悪役の描写として機能しているかも、正直言えば微妙じゃ。ただ——「これほど記憶に残る悪役台詞」は、500年生きてきても数えるほどしかない。善くも悪くも、高槻の「参ったぁ」はMOON.の顔の一つになった。葉鍵板でミーム化し、今でも「MOON.といえば参ったぁ」と言える者が業界にはおる。作品の文脈を知らずに「参ったぁ」という台詞だけを知っておる者もおるじゃろう。それはそれで、この作品の記憶の一形態じゃ。
そして——この「参ったぁ」と、「これが人と人との交わり……私が求めていたもの」という郁未の独白は、同じ日の中に並んでいる。物語の核心に触れる孤独な交わりと、伝説の悪役絶叫が、同じ章に同居しておる。この二面性がMOON.じゃ。重厚なテーマと、到底洗練とは言えない台詞が、同じ作品の同じ場面に生きている。これを「粗削り」と切り捨てることもできる。じゃがわしは——むしろこれがMOON.の1997年性そのものだと思っておる。ぜんぶ磨かれていたら、この作品はここまで記憶に残らなかったじゃろう。
葉子の解放——「私の名前は、鹿沼葉子です」鹿沼葉子——施設内で郁未と同居するA‐9。敬虔な信者として振る舞い、「私の存在はそれ以上でもそれ以下でもありません」と機械的な口調を繰り返す女性じゃ。
彼女の過去は重い。母を殺した罪でFARGOに入り込み、信者としての仮面を被り続けた。施設の外の世界から、彼女は長い時間、断絶していた。
真エンドのエピローグで——郁未が葉子に放つ。「消費税、5%になったから気をつけてね」。
葉子の返答:「消費税って何ですか?」
郁未:「そっか……葉子さん、そんな長い間ここに居たんだ」
消費税は1989年(平成元年)に初めて日本に導入された制度じゃ。葉子は消費税という概念の存在すら知らない——率の変化ではなく、制度そのものを知らないのじゃ。つまり彼女は1989年以前からFARGO施設に閉じ込められており、少なくとも8年以上、外の世界と完全に断絶していたことになる。
激戦の後、静かな日常の断片がこの一語に宿っておる。葉子が施設で失った年月の長さを、「消費税を知らない」という事実一つで示す——この語の選び方は、本物の書き手の仕事じゃ。
そして葉子が初めて本名を名乗る場面——「私の名前は、鹿沼葉子です。よろしくお願いします」。信者としての仮面を脱ぎ、初めて「人間」として自分を名乗る瞬間じゃ。MOON.屈指の解放シーンじゃと、わしは今でも思っておる。
由依の反転序盤、由依が言う:「思い出さないままいた方がいい真実って、あると思いませんか?」。
終盤、由依が言う:「思い出さないままいたほうがいい真実なんて……実はないんじゃないですか」。
同じ人間が、同じ問いに正反対の答えを出す。この反転の設計は、今見ても正確じゃ。由依は姉殺害未遂の過去と幼年期の被害と向き合い続けて、この言葉に辿り着いた。序盤の言葉は防衛機制じゃ。終盤の言葉は成長じゃ。——その両方を書いた。
バッドエンドの評価MOON.のバッドエンドは、単なる「失敗ルート」ではない。
DEAD1陵辱——別棟をうろついてClass D降格、永続陵辱。「もうこの段階に終わりはない」という通告。これは懲罰型のBAD ENDじゃ。施設の閉鎖性と権力構造がそのまま反映されておる。不快ではあるが、テーマ的には機能しておる。
精神世界エンド——「母を殺したのは私」を認める選択。精神世界への閉じ込め、牛/豚の脳との交換という残酷な末路。「真実を認めることが必ずしも解放ではない」という逆説を示す構造じゃ。「うそだ」という真エンドの選択と正反対の結末——この対置は、わしが最も評価するエンド設計の部分じゃ。
由依脱出END——由依が序盤で単独脱出し、後に入信者救済活動家になる。真エンドとは別の「ひとつの正解」として機能しておる。全員が施設を生還する必要はない——という設計は、物語の誠実さの証明じゃ。
テキストの功罪——1997年の荒削りと閃き
文章力に7を付けた。1997年の水準で見れば高い。今の目で見ると、荒削りな部分が目につく。
問題は明確にある。感情描写の密度が場面によって不均一じゃ。強い場面と薄い場面の落差が大きすぎる。日常描写の積み上げが薄く、キャラクターの感情変化が唐突に見える場面がある。
じゃが——核心的な場面のテキストは、別格じゃ。「うそだ……信じない…」という二文字。「さようなら、郁未」という三文字。「私の名前は、鹿沼葉子です」という一文。「消費税って何ですか?」という問いの、あの静けさ。これらは30年経っても削れておらん。強い場面に宿っているものは別格じゃ。
麻枝准の「声」はMOON.にすでに宿っておる。後のKey作品で繰り返される「孤独な魂と魂が触れる瞬間」「意志の力で運命に抗う」「日常の断片が感情の重さを担う」——その原型が、ここにある。テキストとして洗練されていたかと言えばまだ未熟じゃ。しかし「書こうとしていたもの」は既にそこにあった。
7という評点は、「未熟さを認めた上で、宿っているものを評価した数字」じゃ。6では低すぎる。8では甘すぎる。7が正直な評定じゃ。
業界史の中で——麻枝准の原点として
歴史的意義に9を付けた。わしがこの数字を付けるのは、滅多にないことじゃ。
MOON.(1997年11月、Tactics)→ ONE〜輝く季節へ〜(1998年5月、Tactics)→ 麻枝准らTacticsを離れVisual Arts傘下でKeyを設立 → Kanon(1999年)→ AIR(2000年)→ CLANNAD(2004年)
この流れを、わしは実際に目で見てきた。TacticsとKeyは別会社じゃ——麻枝准らがNexton傘下のTacticsを出てVisual Artsに移り、そこでKeyというブランドを作った。Tacticsはその後も存続したが、麻枝准の「声」はKeyへ移った。MOON.で芽吹いたものが、ONE〜輝く季節へ〜で少し大きくなり、Kanonで初めて「名作」として業界に認識され、AIR・CLANNADで「泣きゲー」という一ジャンルを形成した。「心に届くAVG」という1997年のMOON.のジャンル標榜は、この全系譜の最初の宣言じゃった。
後のKey作品を逆照射すると、MOON.の中にある「原型」が見えてくる。
——閉鎖空間の中で、孤独な二つの魂が触れる(少年と郁未)。これはKanon・AIR・CLANNADに繰り返されるモチーフじゃ。
——「真実だとしても、信じない」という意志の力(「うそだ」の選択)。Keyの主人公が何度も見せる、感情の力による運命への抵抗。
——日常の断片が感情の重さを担う(クリームシチューの記憶、消費税の一語)。Keyの「催涙」技法の原型。
——解放の瞬間に「名前を名乗る」(葉子の「私の名前は、鹿沼葉子です」)。仮面と本名の主題は、後のKey作品にも変奏として現れる。
後の〇〇がここから学んでおる——そう言えるのは、わしには見えておるからじゃ。Kanonが学んだ。AIRが学んだ。CLANNADが学んだ。「この一本が後の10年を変えた」というのは誇張ではない。MOON.がなければ、Keyはあの形にはならなかった、とわしは確信しておる。
「1997年、ここから何かが始まろうとしていた。わしには見えたのじゃ。」
— マルチナ
総括——これは残るぞ
「残るか残らないか」——わしの審判はいつもここに帰着する。
MOON.は——残る。
「うそだ……信じない…」という選択。「さようなら、郁未」という消去直前の言葉。「私の名前は、鹿沼葉子です」という解放の宣言。「消費税って何ですか?」という問いが、8年以上の断絶を静かに示す台詞。——これらは、30年経っても削れておらん。
荒削りな部分はある。RPGシステムの重さも見えておるし、文章の密度の不均一も承知の上じゃ。それでも、MOON.が到達した場所は代替不能じゃった。麻枝准と久弥直樹がここで書こうとしていたもの——「心に届く」物語——は、未熟な形ながらも確かに宿っておった。
7.8。
良作であり、今読んでも有効。テーマは生きておる。歴史的意義はほぼ最高点。実装の粗さを差し引いての7.8じゃ。
これは残るぞ。500年生きてきたわしが言う——本物はそういうものじゃ。時間に削られない。MOON.は、削られなかった。
