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大和仁のレビュー — MOON.(ネタバレあり)

大和仁
大和仁
教養の番人
8.0/10
8.0 / 10

FARGOのClass制度とELPODの設計に、カルト研究の階層統制論理と宗教的内省訓練の系譜が使われていた。

不可視の力」という設定の整合性、ELPODが提示する認識論的な選択、葉子の「私の名前は、鹿沼葉子です」という言葉が持つ意味。以下、ネタバレ込みでその話だ。FARGO宗団の組織の骨格は、実在のカルト組織の階層統制論理を踏まえて書かれている。Class制度の統制論理、ELPODによる自己告白の強制化、高槻という組織的暴力の担当者。これらは宗教社会学的な知識の裏付けを持っている。足りないのは(FARGO創設者)の動機が薄いことだ。組織の運営側を丁寧に書き込んだのに、その根源的動機が弱い。それでも、1997年にこれをやった作者は、ぼくにとって評価に値する。

スコア詳細

設定の整合性 8
世界の奥行き 9
テーマ・メッセージ性 8
設定の独自性 8
文章力 7
歴史的意義 8

「不可視の力」の設定整合性——SFとして誠実か

ネタバレ込みで、まず「不可視の力」という設定を検証する。

MOON.の核心設定は「異種族の能力の分身を人体に宿すこと」だ。FARGOが信者に与えようとしている「神の力」の正体がこれで、施設内の捕囚である「少年」は異種族として、郁未完成体に育てる役割を持っている。郁未自身、母親・未夜子から力を遺伝していた。それが物語の真相だ。

この設定の整合性を問うと、内部矛盾はない。郁未が力を遺伝していること、その邪の意志が暴走して母を殺したこと、少年が完成体への育成を担うこと。これらは論理的に繋がっている。「異種族の能力を人間が持てる」という根本的な理由は説明されていないが、それはSFとしての前提として許容できる範囲だ。1997年のエロゲーのSF設定として、ぼくは「誠実」と判断した。

面白いのは「邪の意志」と「正の意志」という二項対立の構図だ。郁未の力が母を殺したのは「母との穏やかな日々を失いたくない」という正の意志が邪の意志を呼び覚ましたからだ、という設定は、人間の感情の暗面を能力の発現と結びつける試みとして読める。心理学的には「抑圧された欲求の噴出」に近い構造だ。作者がそれを意識して書いたかどうかはわからないが、結果として機能している。

一点引っかかるのは、「力を持つ人間(完成体)を作ることでFARGOは何を得るのか」という部分の説明が薄いことだ。組織運営の論理は詳しいのに、最終目的の説明が薄い。これは月という創設者の動機の問題と繋がっている。詳しくは後の節で。

ELPODと「うそだ」——意志は認識に勝てるか

MOON.の最も知的に面白い仕組みが、ELPODと「うそだ」という選択肢の関係だ。

ELPODは「自己と向き合う機械」として機能する。終盤、郁未はELPODを通じて「母を殺したのは自分だ」という真実を突きつけられる。月(FARGO創設者)はその真実を突きつけることで郁未を無力化しようとする。

ここでプレイヤーに与えられる選択が「うそだ……信じない……」だ。これを選ぶことが真エンドへの分岐になる。

調べてみると、これは興味深い構造なんだよ。「真実を提示されても、意志でそれを拒否することで前に進める」という発想は、「認識が行動を規定する」という常識に反している。普通なら「真実を受け入れる勇気が真エンドへの道」という作りになるはずだ。でもMOON.は逆だ。

宗教心理学的に言うと、これは「信仰の構造」に近い。知識(証拠)があってもそれを拒否する意志。信仰とは本質的にそういうものだという見方がある。FARGOは「知識で人間を支配する」組織として描かれている。その組織に対する郁未の勝利が「知識の拒否」である、という構図は、FARGOというテーマと整合している。作者が意図していたかどうかはわからない。でも設定として機能している。

「うそだ」という選択肢は、ELPODという装置の論理と一体だ。「自己と向き合わせる機械」の機能を、意志によって乗り越える。この構造が成立しているのは、ELPODが宗教的内省の強制という論理をしっかり持っているからだと思う。

「私の名前は、鹿沼葉子です」——カルトにおける名前の消去と回復

MOON.の中で、ぼくが最も知識的に響いたシーンの一つが、A棟で郁未と同居する敬虔な信者・葉子の名前回復だ。

FARGO施設では信者が識別番号で管理される。葉子はA-9として存在する。「鹿沼葉子」という名前は施設内では使われない。

真エンドで、葉子は「私の名前は、鹿沼葉子です」と言う。

実はこれ、カルト研究でよく記録される心理操作の反転として機能しているんだよ。閉鎖的な宗教組織が信者に「新しい名前」「識別番号」「信者名」を与える手法は複数の組織で記録されている。この操作の目的は、以前の社会的アイデンティティを切り離して組織への帰属意識を強化することだ。「あなたの本名は重要ではない。組織の中での役割が重要だ」という論理だ。

葉子の「私の名前は、鹿沼葉子です」はその逆転だ。番号から名前への回復。組織が消去しようとした個人のアイデンティティが戻ってくる。このシーンの感情的な力は、カルトにおける名前抹消の論理を知っているほど強く来る。作者がこれを意図したなら、相当に読んでいる人間だと思う。

ぼくがMOON.の設定を「誠実」と判断する根拠の一つが、この葉子の描写だ。

高槻という役割——組織的暴力の統制機能

B棟巡回員・高槻というキャラクターを、ぼくは「悪役」としてより「組織機能の担い手」として読んだ。

高槻はB棟の巡回員で、サディスティックな人物として描かれる。晴香への陵辱、良祐の死への関与。これらは物語の暗部を構成する。

ただ、ぼくが面白いと思うのは高槻の機能的な役割だ。閉鎖的な組織における「暴力担当者」は、組織統制の重要な要素として実在のカルト研究でも記録されている。暴力を行使できる存在が施設内にいることで、信者全体に「逃げれば暴力に遭う」という恐怖が植え付けられる。高槻は狂人として描かれているが、その「狂人」が組織の中で機能を持っているという描き方は、作者が組織の論理を理解しているからこそ可能なものだ。

「なぜFARGOがこんな人間を雇い続けるのか」という疑問への答えが、組織統制上の恐怖機能だとぼくは読む。高槻が「ただ狂っているから残虐なことをする」のではなく、「その残虐性がFARGO施設の統制に利用されている」。そういう構造が読み取れる。

月の動機——ここだけが惜しかった

FARGOの組織構造が丁寧に書かれているだけに、月(FARGO創設者)の動機の薄さが目立つ。

月は「悲劇の傍観者」を自称するFARGO創設者だ。最終ボスとして郁未と対決する。

ちょっと勿体ないと思うのは、FARGOという組織の運営論理はこれほど丁寧に書き込まれているのに、その組織を作った月が「なぜFARGOを作ったのか」「人間に不可視の力を宿すことで何を達成しようとしているのか」という根源的な動機が、「悲劇の傍観者」という漠然とした自称に収まっているところだ。

FARGOのClass制度を構築し、ELPODという装置を作り、異種族の捕囚を使って実験を続けてきた創設者の「なぜ」が弱い。Class制度の統制論理を作者が理解しているなら、その論理を作った人間の動機もそれに見合う深さで書けたはずだ。調べた感じでは、「悲劇の傍観者」という概念に対応する神学的・哲学的な概念群(神義論・傍観者効果・ニヒリズム的傍観etc.)が参照されている痕跡がない。幅が足りない。

これがMOON.の設定整合性が9でなく8に止まる理由の一つだ。組織の末端は丁寧に書き込まれているが、頂点の動機が薄い。

Hシーンの評価——物語との整合性で判断する

Hシーンは知識的・文学的観点から見ていく。実用性の話はエレナさんの領域だ。

MOON.のHシーンの中でぼくが最も注目するのは、郁未と少年の交わりだ。異種族である少年との性的な結合は、「閉鎖空間の中で人間と異種族が関係を深める」という物語の軸と直接連動している。「家族ごっこ」として始まった同居関係が、ELPODでの内省・施設の謎の解明・少年の正体の発覚を経たうえで到達するシーンだ。本編のテーマから切り離されたサービスシーンではない。H12(エロと物語の相乗効果)の評価が高い。

対照的なのが晴香の陵辱シーンだ。MINMESという精神訓練機械の中で行われるという設定との整合性はある。「訓練」という名目で行われる暴力というFARGOの論理に沿っている。ただ、読後に残るものが少ない。設定上の整合性はあるが、文学的質は低い。高槻という組織的暴力の担当者を描く機能はあるが、そこ止まりだ。

バッドエンドの陵辱シーン(Class D降格後)はゲーム的なペナルティとして機能している。施設内でのClass D扱いという設定との整合性はある。文学的評価の対象ではない。

全体として、MOON.のHシーンはゲームのテーマと連動しているものとそうでないものが混在している。物語と繋がっているシーンの文章力は高い。

8.0の全体像——この作品は、ぼくに何かを教えてくれた

ぼくの評価軸は「教養が作品を豊かにしているか」だ。最後はこれで測った。

MOON.をプレイして、ぼくは何かを新しく知った。カルト組織のClass制度の統制論理が、1997年のエロゲーの設定として誠実に使われていること。ELPODという自己内省装置の発想が宗教的修練の機械的変換として機能していること。葉子の「私の名前は」という台詞が持つ社会学的な意味の深さ。

「こういう発見があるのが、このゲームをやって良かったと思う理由」。ぼくにとってのMOON.はそういう作品だった。

月の動機の薄さ、RPGシステムとシナリオの密度の乖離。これらは8.0に止まる理由だ。9には届かない。でも、1997年にここまで宗教組織を調べてゲームを作った作者は、ぼくにとって評価に値する。エロゲーという形式が、知識の器として機能している。それだけで、やる価値がある。

麻枝准と久弥直樹はその後Tacticsを離れ、Keyでの作品群を通じて業界の歴史を変えた。MOON.はその最初の一本として、設定の誠実さという観点でも歴史的意義の観点でも記録に値する。

「MOON.が教えてくれたことは、カルト組織の論理だけじゃない。知識を使って誠実に作られた1997年のゲームが、今でも読める。それがぼくの結論だ。」

— 大和仁

8.0。