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マルチナ・カーンスタインのレビュー(ネタバレあり) — ONE〜輝く季節へ〜

マルチナ・カーンスタイン
マルチナ・カーンスタイン
時間を超えて審判する
7.2/10
7.2 / 10

「えいえんはあるよ」——この一行が業界に刻まれた瞬間に、わしは立ち会った。28年経って、まだ響きは残っておる。

1998年。Tactics の名で出たあの頃、麻枝准も久弥直樹もまだ無名じゃった。Keyという会社もまだない。それなのにこの作品は、後の10年を変えてしまった。今回は当時の記憶と、もう一度ディスクを回した上での審判じゃ。残ったものと、削れたもの。両方じゃ。

スコア詳細

歴史的意義 9
作品の尖り・唯一無二性 8
テーマ・メッセージ性 7
文章力・描写力 7
テンポ・緩急 6
Hシーンの質 6

【当時の記憶】1998年、誰も「消えていく主人公」を書いていなかった

まず当時の話からじゃ。

1998年5月。Tacticsという小さなブランドから、ほとんど無印のまま出てきたこの作品を、わしは縁あって早い時期に通した。当時のエロゲー業界は、純愛系のマルチエンディングが定型として固まりかけておった頃でな。Leaf の To Heart が前年に出ていて、「ヒロインを攻略する」という遊び方がジャンルとして定まっていく流れの中におった。

そこへこの作品が放り込まれた。何が異常だったか——主人公の折原浩平が、ゲームの進行とともに「現世から消えていく」のじゃ。誰も書いていなかったぞ、これは。当時のわしの記憶では、ヒロインが消える話はあった。主人公が死ぬ話もあった。だが「主人公が世界から認識されなくなって、最終的に存在ごと忘却される」という構造を、ギャルゲーのフォーマットでやった作品はなかった。

そして「えいえんはあるよ」——この一行じゃ。冒頭、幼い浩平が泣いておった夕焼けの世界で、少女が告げる言葉。「ずっと、わたしがいっしょに居てあげるよ、これからは」。あれを当時読んで、わしは画面を止めた覚えがある。500年生きていても、こういうフレーズには稀にしか出会わぬ。短い、平易な、子供の言葉。それが業界に刻まれる強度を持っておった。

【再プレイして】消えたものと、残ったもの

28年ぶりに通しでやった。所感はこうじゃ。

……おお。まだあったか。長森瑞佳——だよもん星人と呼ばれる幼なじみで、共通ルートからずっと浩平の隣におる女子じゃ——その長森が信号機越しに浩平を見つける場面、「捕まえたっ……やっと捕まえたっ……浩平っ、捕まえたよっ」。ここは残っておった。当時泣いた。今回も来た。500年生きていてこれが来るのは、珍しいのう。

椎名繭——「みゅーっ」しか言えない幼い少女じゃ——彼女が消えた後に「みゅーーーーっ!」と泣き叫ぶ場面も残っておった。当時はこれが「あざとい」と言われた記憶もある。今読むと違う。あの繰り返される「みゅーっ」は、言葉を持たぬ存在が言葉を求めて発する音として書かれておる。28年経ってようやく見えた。

逆に削れたものもある。共通ルートの軽口の応酬じゃ。当時はこのテンポが新鮮じゃった。男子高校生のだらけた日常会話を、ここまで分量を割いて書いた作品は少なかった。今読むとのう……長い。素直に長い。本題に入るまでの助走が、現代の感覚では重い。これは時代じゃ。仕方ない部分もある。

【再プレイして・続】永遠の盟約という装置の正体

ネタバレなし版では書けなかった核心じゃ。

浩平は幼少期に妹みさおを病で失っておる。叔母の家に預けられて、毎日泣き伏せておった7歳の浩平のところに、夕焼けの止まった世界で「ひとりの少女」が現れる。「えいえんはあるよ」「ずっと、わたしがいっしょに居てあげるよ、これからは」と告げて、唇を合わせた。これが永遠の盟約じゃ。

そしてこの少女が——幼い長森瑞佳だった、と読める構造になっておる。浩平の心の中に住み着いた「永遠」の擬人化が、現実の長森と重ねて描かれる。喪失から逃げるために作り出した避難所が、現実の幼なじみと結びついておる。これは設計として相当に巧い。

当時のわしはこの構造を「綺麗じゃが少し都合がいいのう」と思っておった。今読むと違う。喪失への逃避——これが永遠の正体じゃ——を、避難所として最も身近におった子に投影した、と読める。だからこそ高校生の浩平が長森を遠ざける時のあの居心地の悪さが意味を持つ。当時のわしは表層しか読めておらんかった。再プレイで気づいたぞ。

【時間の審判】「えいえんはあるよ」は28年生き延びた

時を経ても有効か。判決を下すとしよう。

本作の最終的なテーゼはこうじゃ。永遠の世界に取り込まれた浩平が、最後に独白する。「滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間だってことを。こんな永遠なんて、もういらなかった」。終わりがあるからこそ瞬間に意味がある——という古典的な命題を、「永遠を求めた少年が永遠に飲み込まれる」という装置で証明する構造になっておる。

このテーゼ自体は、わしから見れば手垢のついた問いじゃ。500年も生きておれば、似た問いを掲げた物語には何度も出会ってきた。だがこの作品は、それを「えいえんはあるよ」というシンボル句に圧縮することに成功しておる。短い言葉で世界観全体を引き受けるフレーズ——これを設計できた作品は、当時もそれ以降も多くはない。

BADエンドがテーゼの裏返しとして機能している点も今回確認できた。長森ルートのBADでは浩平が帰還の瞬間を逃す。茜——空き地で誰かを待ち続けておる無口なクラスメイト、里村茜じゃ——のBADでは、浩平が永遠側で待つことを選んで、茜の記憶から完全に消える。「あなたのこと忘れます……さようなら。本当に好きだった人」。あの一文の冷たさは今も残っておる。GOOD/BADを「テーゼの実証/反証」として並べる設計、当時はまだ業界に共有されていなかった手付きじゃ。

【業界史の中で】Key を生んだ原型として

この作品が何に影響を与えたか、わしの目で見ていくとしよう。

本作のライターは麻枝准と久弥直樹。長森・七瀬・繭の三ルートと共通根幹が麻枝、川名みさき上月澪・里村茜の三ルートが久弥という分担じゃった。この二人が翌1999年にKey を立ち上げて Kanon を出す。2000年に Air、2004年に CLANNAD じゃ。後の10年の「泣きゲー」というジャンル全体が、この二人の手から出た。

つまり本作は、Key 作品群の原型である。「ヒロインが超常的な事情で失われる/取り戻す」「日常の積み重ねが終盤の喪失で爆発する」「短いシンボル句が世界観を引き受ける」——後の Kanon でも Air でも、この型が繰り返される。原型がここにある。後の作品がここから学んでおる。これは業界史的に動かしがたい事実じゃ。

もう一つ、業界に残した発明がある。氷上シュンというキャラじゃ。浩平と同じ「永遠の引力」にある同級生で、クリスマスの屋上で浩平に告げる。「家族に大病を患ったひとがいないかい」「物語はフィクションじゃない、現実なんだよ」。物語の内側の警告と、画面の外への語りかけを同時に成立させる装置じゃ。後のメタ的な視座を持つ作品群——どれとは言わぬが、いくつもある——が、この立ち位置を別の形で再生産しておる。当時これを「ビジュアルノベルの中で」やったのは大きい。

Hシーンについて——時代相応、というところじゃな

Hシーンの話もしておこう。

全部で7シーン。長森、七瀬の二回、椎名、川名みさき——図書室で出会う中途失明の先輩じゃ——、上月澪——スケッチブックでしか会話できぬ後輩じゃ——、そして茜。多くは消失の直前か、関係が結晶する瞬間に置かれておる。配置として悪くない。

テキストとしての完成度は、当時の水準で言えば及第点じゃ。文学的に踏み込んだ筆ではない。が、行為の羅列に堕してもおらん。それぞれのヒロインの口調と心理は概ね保たれておって、誰でも同じ反応というベッドヤクザ問題は本作にはない。当時はこれで十分じゃった。今の目で見ると描写が薄いと感じる箇所はあるが、致命的な欠点ではない。

七瀬留美——剣道部の元主将で乙女に憧れておる気の強い女子じゃ——の教室での一回目だけは、本編の流れとの繋がりがやや弱い。ここは当時もチグハグに感じた覚えがある。今回も同じ印象じゃった。28年経って評価が変わらないということは、構造的な弱点ということじゃ。物語との接続では六割の合格点、文章力でも六割。それが今回の判決じゃ。

削れなかった弱点——テンポと、ライター差

時間が許してくれなかった弱点もある。

共通ルートの長さじゃ。これは1998年の時代背景を考慮しても、現代のプレイヤーには重い。当時のエロゲープレイヤーは「日常パートをじっくり読む」ことに耐性があった。今は違う。序盤で離脱する者が多いと聞く。設計の意図はわかるし、後の感情爆発の助走として機能はしておる。それでも、序盤への配慮が薄いのは事実じゃ。

加えて、ゲームとしての難易度が共通ルートの長さに拍車をかける。攻略なしで進めると、ヒロインルートに分岐できずに汎用バッドエンドに落ちやすい設計になっておる。選択肢の意味が分かりにくく、複数ヒロインのフラグが競合する仕組みのため、初見では正しい分岐に入れないことが多い。あの長い共通ルートを何周も読まされる羽目になる。長さと難易度が重なると、攻略なしでは相当に消耗する体験になるのう。当時のわしは攻略があったが、今の若い者には厳しいじゃろ。

麻枝担当の三ルートと久弥担当の三ルートに密度差がある点も、再プレイで改めて確認できた。麻枝の長森・七瀬・繭は感情の爆発点が明確に設計されておって、共通ルートからの助走が計算されておる。久弥のみさき・澪・茜は詩的で抑制が効いておるが、一部のルートで収束の密度が麻枝ほど高くない。茜ルートの空き地での別れの一行は久弥の最良の瞬間じゃが、そこに至る積み上げは麻枝の三ルートに比べて控えめじゃ。

これらは時代の制約と、二人のライターの作家性の違いから来るもの。直せなかった弱点として、正直に置いておく。

7.2——時を超えた発明と、時に削られた装飾

最後に判決を下すとしよう。

「えいえんはあるよ」は残った。「滅びに向かうからこそ」も残った。「みゅーーーーっ!」も「捕まえたっ……やっと捕まえたっ」も「お前は……ふられたんだ」も、28年経っても消えておらん。これらは時間に削られなかった部分じゃ。本物はこういうものじゃな。

削れた部分もある。共通ルートのテンポ、ルート間の密度差、Hシーンの一部の唐突さ。これらは時代の産物として、敬意を持って横に置く。当時はこれで十分じゃった、というやつじゃ。

業界史の中での位置づけは動かない。Key を生んだ原型として、「泣きゲー」というジャンルの起点として、本作は残る。500年後に残るかは知らぬ。だが少なくとも次の50年は確実に残る。それが7.2の意味じゃ。8には届かなかった。理由は時代に削られた部分が無視できないからじゃ。だが7.2は、わしから見れば「歴史に名を残す作品」の最低ラインを超えておる、という判決でもある。

……後の Kanon を作ることになる二人が、ここで何を考えていたかを想像しながら読み直すのは、わしのような古い者にとっては贅沢な時間じゃった。それは付け加えておく。