時間を結晶に見立てる発想、離人症と現象学、三冊の引用書。これだけ別系統の教養を、夏の山荘という小さな箱にきれいに畳み込んでいる。
タイトルPrismaticallizationはPrism(プリズム)+crystallize(結晶化する)+-ationの造語で、「時間が結晶に差し込むと、プリズムのように様々に見える」という草加の台詞そのものが題名の定義になっている。ぼくがこの作品に唸ったのは、この一つの中心的なメタファに、量子論の基底/励起、現象学のノエマ・ノエシス、離人症(デペルソナリザシオン)、そして『不思議の国のアリス』『夏への扉』『真夏の夜の夢』という三冊の引用が、全部同じ方向を指して配置されている点だ。1999年の全年齢ADVで、ここまで設定の意匠を一本の論理に揃えた作品はそう多くない。8.0という評価は「これだけの教養を、見せびらかしではなく構造として使い切った」ことへの評点だ。
スコア詳細
このゲームについて
時間の繰り返しを扱ったADVがあると聞いて、ぼくがまず気にしたのは、作者がその「時間」を物理の言葉で考えたのか、文学の言葉で考えたのか、どっちなんだろう、ということだった。
Prismaticallizationは1999年、アークシステムワークスからPlayStation・ドリームキャストで発売された全年齢のアドベンチャー。シナリオは池田修一、原画は射尾卓弥。ジャンルは「サークレイト・アドベンチャー」と名乗っている。サークレイト(circulate=循環する)の名のとおり、夏休みの山荘で過ごす一日が、微妙な差異を伴って何度も繰り返される構造を持った作品だ。
主人公の射場荘司は18歳の受験生。隣家の幼馴染柊明美に連れられ、山奥の山荘へやってくる。そこは五歳年上の木ノ下さよりと、寡黙な少女みゆが切り盛りする避暑地で、先客の鳴川澄香と沢村雪乃も加わって、女ばかりの中で荘司の夏が始まる。
ぼくがこの作品でやろうと思っていたのは、いつもの読み方だ。SFや伝奇や時間ものをADVで扱うとき、作者がどの分野の知識を持っていて、それをどこまで誠実に使っているか。見るのはそこだけだ。結論から言うと、本作は物理と文学と哲学を同時に持ち込んでいて、しかもそれが散らからずに一つの主題に収束していた。以下、踏み込んだ話。
プリズムというメタファ——草加の一台詞が、題名そのものになっている
まず核になるのは、序盤の夢シーンで草加が荘司に語るプリズム論だ。
林の中で出会う草加武則は、半透明にきらめく鉱石を荘司に渡しながらこう言う。「それ自体が過去。過去の結晶。世界そのもの」。そして「同様に、時間が、それに差し込む。するとプリズムのように、様々に見える。一本の時間線上では通過しない事象も、角度を変えるなり、何かを刻み込むなりすれば……」。これがそのまま題名Prismaticallizationの定義になっている。
面白いのはここなんだよ。プリズムというのは、白色光を波長ごとに分解して虹を見せる光学素子だ。一本に見えていた光が、ガラスを通すと複数の色に分かれる。これを時間に当てはめると、一本道に見えていた過去・現在・未来が、結晶を通すと複数の可能性として分かれて見える、ということになる。本作のループ構造そのものを、光学の比喩一つで言い切っている。比喩が飾りではなく、世界のルールの説明として機能している。これはなかなか出来ることじゃない。
しかも作者は、この比喩を量子論の語彙で補強している。タイトル画面のシステム用語を見ると、各「記録」の状態が基底状態/励起状態で分類されている。基底状態というのは原子が最も安定した最低エネルギーの状態、励起状態はそれがエネルギーを得て高い準位に上がった状態を指す物理用語だ。時間軸の「重ね合わせ」というモチーフは、まさに量子力学の重ね合わせ(superposition)から来ている。プリズム(古典光学)と基底/励起(量子論)という、物理史の異なる時代の概念を、時間の多面性という一点に向けて束ねている。ぼくは「設定の独自性」に9をつけたけれど、その根拠はこの束ね方の巧さだ。
みゆの離人症——フッサールとデカルトを、小学生の口に乗せた挑戦
本作で一番ぼくが驚いたのは、みゆの夜の哲学談義だ。これは正直、覚悟のいる書き方をしている。
丘の上でみゆは自分の状態をこう語る。「実在感、現実感、充実感、重量感、所属感……」「自己意識、それに時間感覚……」、そしてデペルソナリザシオンと。これは仏語Dépersonnalisationの音写で、離人症・離人感障害を指す医学用語だ。荘司が即座に「離人症か……君が?」と和訳で返すあたり、主人公の博識を見せる場面でもあるんだけど、ぼくが感心したのはその先だ。
みゆは続けて「エポケーの結果に、コギトが残る。……だから、自分がある。……でも私には、何も残らない」と言う。これは凄いことを言っている。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、あらゆるものを疑い尽くした後に、疑っている自分の存在だけは疑えない、という近代哲学の出発点だ。フッサールのエポケー(判断停止)も、世界の存在を一旦カッコに入れて、最後に残る純粋意識から哲学を始め直す手続きを指す。ところがみゆは、その「最後に残るはずの自己」自体が自分には残らない、と訴えているわけだ。離人症という症状を、近代哲学が前提にしてきた「思考する自己」の不成立として言い換えている。医学と哲学を一本で繋いでいる。
さらに荘司との談義ではノエマとノエシスも出てくる。ノエシスは意識の作用そのもの、ノエマはその作用が向かう意味対象。みゆの離人症をノエシスの不全として、彼女が「全てが重なって見える」と訴える複合視をノエマの過剰として読むと、彼女の症状の描写が現象学の枠組みできちんと整理できる。アイン・マーリヒという語も口にするが、これはおそらく独語のEin Mährchen(ひとつのおとぎ話)の音写で、自分の行為を物語化・寓話化して眺める離人症的な視座と整合する。1999年に、これを小学生のヒロインの口に乗せた。作者の度胸には、ぼくも唸らされたな。
正直に言うと、ここには弱点もある。この哲学クラスタは、みゆの症状の説得力を上げてはいるけれど、物語の解決には直接効いていない。みゆの離人症は、最終的に「父親に捨てられた子供が感情を凍らせていた」という家族の物語で溶けていく。現象学的な自己喪失と、家族崩壊による情緒の凍結は、本来は別の層の話だ。前者の精緻な道具立てが、後者の素朴な解決に回収されてしまうところに、ぼくは少しだけ詰めの甘さを感じた。設定の整合性を10ではなく8に置いたのは、この一点が理由だ。
アリス・夏への扉・真夏の夜の夢——雪乃の本棚が、作品の構造図になっている
引用の配置という点で、本作は相当に意識的だ。雪乃が持ち込む三冊の本が、それぞれ別の角度から本作の構造を予告している。
読書家の雪乃が荘司との最初の会話で読んでいるのは『不思議の国のアリス』だ。彼女が読んでいるのはチェシャ猫の場面で、「ここではみんな狂っている」というあの台詞のところ。荘司が「『でなければ、ここへ来たりはしなかったさ』……かな?」と続きを暗誦する。ぼくはこの引用の選び方に膝を打った。「ここに来た者は皆狂っている、なぜなら狂っていなければここに来ない」という自家撞着は、そのまま山荘の時間ループの論理になっている。ループに囚われている者だけが、ループの中にいる。荘司自身が「アリスの気が振れることは、即ち、彼女の世界の変容を意味する」と内省するが、これは観測者が変わると世界が変わるという、プリズム論の文学版だ。
二冊目は『夏への扉』。ハインラインのタイムトラベルSFの古典だ。荘司は表紙を見て即座に「誰か、男性から贈られた、というところかな?」「ある趣味の男が、女性に勧める定番だからね」と当てる。雪乃はそれを兄からの贈り物だと認める。ここが巧い。『夏への扉』はコールドスリープと時間旅行で「失われた時間」を取り戻す話だが、それを贈った兄が、後に妹を時間操作で囲い込もうとする沢村の兄であることが終盤で判明する。一冊の蔵書が、兄の歪んだ執着の伏線として機能している。引用が雰囲気作りではなく、人物配置の手掛かりになっている。
三冊目は『真夏の夜の夢』。雪乃は「恋人が取り変わっちゃうのは、ちょっと……ですけど」と言う。シェイクスピアのこの戯曲は、妖精パックの惚れ薬で恋人の組み合わせが夜の森で入れ替わる喜劇だ。荘司も「妖精が暗躍していそうな雰囲気だ」と山荘に重ねる。これが本作のルート構造の予告になっている。本作は荘司が五人のヒロインの誰とでも結ばれ得るマルチルートで、つまり「恋人が取り変わる」設計そのものなんだよ。一夏の山荘で恋の相手が複数の可能性として分かれる、というのは『真夏の夜の夢』の構造と、プリズム論の「角度を変えれば違って見える」とが、文学とSFの両側から同じ一点を照らしている。三冊の選び方が偶然なら凄い、計算なら見事だ。ぼくは計算だと思っている。
記録・参照・解放——システム用語が、そのまま物語の概念になっている
もう一つ、ぼくが構造として高く買うのは、メニュー用語と物語内の時間操作が一対一で重なる設計だ。
本作のタイトル画面のメニューは、記録・参照・解放という語で組まれている。普通のADVなら、セーブ・ロード・データ消去と呼ぶところだ。ところが本作は、この三語を物語内の時間操作の概念とそのまま重ねている。「記録」が時間軸の確定、「参照」が過去への遡及、「解放」がループからの離脱を意味する。プレイヤーがセーブ操作をする行為が、物語内で荘司たちが過去を刻む行為と、語のレベルで一致している。内時性確認というメニュー名も、フッサールの内的時間意識を思わせる造語で、客観時間ではなく主観時間の経過を確認する、という意味に読める。
このジャンル「サークレイト・アドベンチャー」は、一回のループにつき複数の状態(フラグ)を「記録」でき、それが次のループで「解放」されて新しい展開が開く、という仕組みだと推察できる。つまりゲームの進行構造それ自体が、物語の時間ループのルールと同型になっている。メタ的に言えば、プレイヤーの操作と作中人物の行為が、同じ一つの「時間を刻む」という動詞で記述されている。これは設計思想として相当に尖っている。「作品の尖り」に8をつけたのは、この同型構造の野心ゆえだ。
失敗時のバッドエンド名も気が利いている。ディヴァージ・エラーはDiverge(分岐する・逸れる)から来た、ループ脱出失敗の名称。アンノウンは記録の矛盾・未定義状態を指すUnknown。エラー名一つにまで、時間軸の概念を貫徹させている。語の選び方に手を抜いていない。
三度呼べ・失せ物の伝承——民俗の言い伝えを、主題の論理に変えている
世界の奥行きという点で見ておきたいのが、山荘に伝わる失せ物の伝承だ。
明美が荘司に語る山荘の言い伝えは、無くしたものを「三度呼べ」ば見つかる、というものだ。対象は「人、物、そして想い……」。ここで荘司が「無くしたモノが判らないのに、呼べるのか?」と突っ込むと、明美が「問と答が同じ……それを呼べる時点で、もう手に入れてる……って、ことじゃないかな」と返す。これはなかなか深い逆説で、呼べる=名前を知っている=既にその存在を手にしている、という自家撞着になっている。失くしたものの名を呼べる時点で、それは失われていない。
荘司はこれを「典型的な、失せ物発見伝承だ。たとえば、27代安閑天皇の皇后が失踪した際にも……」と雑学で相対化する。安閑天皇は六世紀前半、在位わずか数年の天皇で、こんなところを引いてくる荘司の博識はキャラ造形として効いている。ただ、ぼくがここで評価したいのは、ありふれた民俗伝承を、作者が本作固有の主題に作り変えているところだ。普通の失せ物伝承は「物」を探す。本作の伝承は「想い」も探せる、というところに一点だけ手を加えている。明美は「迷って、見失ってしまった自分自身の心……それも見つかる」と言う。この一点の改変で、民俗的な失せ物の話が、自分の本心を取り戻す物語の主題装置に化けている。
そしてこの伝承は、プリズム論ともきれいに接続する。失われた過去(=結晶に閉じ込められた可能性)を、観測の角度を変えることで取り戻す。三度呼ぶという作法は、結晶に光を差し込む行為の民俗版だ。物理(プリズム)・哲学(現象学)・文学(アリスの自家撞着)・民俗(失せ物伝承)が、全部「観測すれば失われたものは見つかる」という一つの命題に向かって配置されている。世界の奥行きに8をつけたのは、山荘という狭い舞台の裏に、これだけの知識的な裏付けが層になって積まれているからだ。八年前まで木ノ下家・琴原家・射場家・柊家が同じ近所に住んでいた、という背景設定も、登場人物の関係が舞台の外側にちゃんと歴史を持っていることを示している。
弱点——道具立ての精緻さに、解決の素朴さが追いついていない
褒めてばかりもいられない。ぼくが惜しいと思った点も、正直に。
本作の中心にあるのは、結局のところ家族と片想いの物語だ。琴原耕一がさよりへの想いを抱えたまま家族を捨て、さよりも五歳上のこの男に幼い頃から恋い焦がれていた。みゆはそれを察して父を取り戻そうとプリズムに手を出す。さよりがみゆを抱きしめて「人を好きになるのに、理由なんて無いから」と言い切り、琴原が「私に、親の資格は無いんだよ」と再び去る。雪乃の兄も「この世には、無駄なものが多すぎる。必要なのは、雪乃だけだ」と妹への執着を吐露し、雪乃が「私は……世の中に無駄なことって、無いと思う」と拒絶する。情緒の交通整理としては、よく出来ている。
ただ、ぼくの軸で見ると、ここまで積み上げた知的な道具立て(プリズム論・現象学・量子論・記録解放の二重構造)が、最後はわりと素朴な人情で解決してしまう。みゆの離人症は、フッサールやデカルトの精緻な枠組みで導入されたのに、解消されるときは「父に捨てられた寂しさが、お兄ちゃん(荘司)の存在で溶ける」という情の話になる。「お兄ちゃん……おはよう。朝御飯、できています」という同居エンドの一行は、確かに胸に来る。来るんだけど、それは現象学とは何の関係もない着地だ。哲学が問題提起の飾りに留まり、解決に効いていない。これが「設定の整合性」をぼくが満点に置けなかった理由だ。導入した概念は、解決にも責任を持ってほしかった。
もう一つ。沢村兄の「現実は、退屈で、鈍重だ」と草加の同種の倦怠、荘司自身の「こいつは俺に似ている。だから腹立たしい。近親憎悪」という自己認識。この「現実への倦怠を抱えた男たち」のモチーフは面白い鏡像構造なんだけど、草加の「想う相手」が最後まで明かされないなど、男性側の動機の掘り下げがヒロイン側より一段浅い。プリズムで世界を変えようとする動機が「世界が退屈だから」で止まっていて、その思想的な根拠まで降りていない。荘司の卑屈さの戯画として配置されているのは分かるんだけど、もう一歩、彼らが何を読んで何を信じてそこに至ったのかが見たかった。
8.0——時間を題材にした作品で、ここまで複数の学問を一点に揃えた例は珍しい
「教養が作品を豊かにしているか」。本作もそれで測った。
Prismaticallizationは、ぼくの基準で「教養が構造として機能している」作品に該当する。プリズムという光学の比喩で時間ループを説明し、基底/励起という量子論でそれを補強し、ノエマ・ノエシスとコギトという現象学で離人症のヒロインを造形し、アリス・夏への扉・真夏の夜の夢という三冊でルート構造と伏線を予告し、失せ物の民俗伝承で主題を一言に畳む。これだけ別系統の知識を、夏の山荘という小さな箱に、散らからずに畳み込んでいる。1999年の全年齢ADVでこの密度は、内輪参照では絶対に出てこない。
8.0という評価は「明確な知識的根拠があり、それを誠実に構造へ組み込んでいる」という評点だ。9や10に届かないのは、本文でも書いたとおり、導入した知的概念が解決に責任を持ち切れず、最後は素朴な人情の着地に回収されてしまう点。哲学が問題提起の段階で止まり、男性陣の思想的動機の掘り下げが浅い点。道具立ての精緻さと、その使い切りの間に、ぼくは半歩の隙間を見た。
それでも、これは「やって良かった」と思える作品だった。ぼくはプレイ後、フッサールの現象学入門書と、『真夏の夜の夢』を本棚から引っ張り出した。プリズムで時間を語るという発想がどこから来たのか気になって、結晶光学の項も読み返した。こういう発見があるのが、この趣味をやめられない理由なんだよ。題名の意味を最後まで考えさせる作品は、それだけで価値がある。
「プリズムの光学、量子論の基底と励起、現象学のノエマとノエシス、三冊の引用書、失せ物の民俗伝承。これだけ別系統の教養を、夏の山荘という一点に揃えた1999年のADV。ぼくが8.0と評価するのは、知識を見せびらかしではなく構造として使い切ったからだ。」
— 大和仁
8.0。
