大和仁のレビュー — 雫

大和仁
大和仁
教養の番人
8.0/10
8.0 / 10

「電波系」という日本語が一作品から生まれた、その歴史的事実を教養の側から測ってみた。

1996年1月、Leafが「リーフ・ビジュアルノベルシリーズ第1作」として発売した『雫』。シナリオは髙橋龍也さん。ぼくの評価軸——歴史・科学・宗教・民俗学の知識的誠実さ——は、この作品には半分しか機能しない。雫が踏み込んでいるのは思春期男子の観念的狂気の領域で、教養を引用して書かれた作品ではないからだ。それでも8.0をつける。一作品が「電波系」という日本語そのものを生み、ビジュアルノベルというジャンル名の出発点になり、髙橋龍也・折戸伸治・原田宇陀児という後の業界中核人材の起点になった——この三重の歴史的意義は、教養の側から見ても記録に値する。

スコア詳細

設定の独自性 9
設定の整合性 8
世界の奥行き 7
文章力・描写力 8
歴史的意義 9
作品の尖り 9

「電波系」の語源になった作品——ぼくが確かめたかったのは、なぜそれが起きたかだった

「電波系」という日本語が、一本のエロゲーから生まれたという事実を、ぼくはずっと不思議に思っていた。

『雫 〜しずく〜』は1996年1月、PC-9801版がLeafから発売された。同年6月にWindows版、2004年にDVD-ROMリニューアル版が出ている。「リーフ・ビジュアルノベルシリーズ第1作」と銘打たれた、ビジュアルノベルというジャンル名の自称の起源にあたる作品だ。シナリオは髙橋龍也さん、Leaf入社後の最初の大きな仕事になった。音楽は折戸伸治さん——この作品の音楽完成後にLeafを離れ、後にKeyの設立に参加してKanon・AIR・CLANNADの音楽を手がけることになる人物だ。

舞台はK県E市S町の高校。主人公・長瀬祐介は2年B組の17歳、現代国語教師である叔父から、同じクラスの太田香奈子が授業中に発狂した事件の調査を依頼される。深夜の学校で「妖しい集会」が開かれているという。調査の過程で、屋上で「電波」「アンテナ」と意味不明なことを語る同学年の少女・月島瑠璃子と出会う。彼女もまた何かを壊された者の表情をしている。サブヒロインに藍原瑞穂新城沙織。エンディングは13種類、うち2つが瑠璃子の真エンド、残りの大半がバッドエンドだ。

「電波系」という語彙がここから生まれた、というのは、Wikipedia「電波系」項目・ニコニコ大百科・当時のBBSログを含めて複数の資料で記録されている事実だ。1996年以前にこの用法はなく、雫以後に急速に広がって、現代ではエロゲーやサブカルを超えてTwitterの俗語にまで定着している。語彙が一作品から生まれてオタク文化の共通言語になる——これは相当に稀な事例だ。

ぼくがこの作品を読む軸はそこだ。「なぜ雫がこの語彙を生んだのか」。教養の側から検証してみたい。

ビジュアルノベルというジャンル名の起源——形式の発明として読む

設定や物語の前に、まずこの作品が形式として何を発明したかを確認したい。

髙橋龍也さんがLeaf入社時に「『かまいたちの夜』のようなものが書ける」とアピールして、この企画を立ち上げた——というのは複数のインタビューで本人が語っている。チュンソフトのサウンドノベル『かまいたちの夜』(1994年)から、立ち絵・背景CG・イベントCGの全画面統合表示というアイデアを発展させ、テキストに視覚情報を融合させた新しいフォーマットを作った。これが「リーフ・ビジュアルノベル」と自称された形式の中身だ。

調べてみると、文学のジャンル名が「自称」から始まるケースは、それほど多くない。多くは批評家側からの命名だ。例えば「私小説」は田山花袋から始まったとされるが、本人が「私小説」と銘打って書いていたわけではなく、後の評論で固定された名称だ。一方「ビジュアルノベル」は、Leaf側が最初から「これはビジュアルノベルだ」と打ち出して、それがジャンル名として定着した。作品自身が自分のフォーマットを定義する力を持っていた、ということだ。これは形式史的に面白い。

髙橋さんはインタビューで「テキストを飛ばす人がいなかった」と特記している。テキストスキップが当然だった時代に、プレイヤーが自発的に全文を読んだ。これは「設定の独自性」を支える事実だと思う。文字を読ませる仕組みを発明したというより、「文字を読みたくさせる文体」を持っていた、ということだ。ぼくは2024年にプレイしたけれど、30年近く経ってもこれは機能している。文章力に8をつけた理由の一つはここだ。

髙橋龍也の文体——日本近代文学の私小説的テクスチャがある

「文字を読みたくさせる文体」とは何か。具体的に書かれているテキストを見たい。

主人公・長瀬祐介の一人称独白には、当時のエロゲーとしては異例の密度がある。授業中、彼はノートに地球の絵を描いて、それを爆弾で破壊する妄想に酔う。色のない無声映画のような世界を生きていて、太田香奈子が発狂した事件を聞いた時、最初に湧くのが恐怖ではなく「いいようのない親近感」だ。「狂気。その言葉に僕は強く惹かれるのだった」と独白する。

これね、調べると日本近代文学の私小説的伝統と、近代以降の精神医学の語彙が混ざった独特の表現になっている。横光利一『機械』、坂口安吾『風博士』、中島らも『今夜、すべてのバーで』——日本の文学には「狂気は世界の真実を見るための窓だ」という反精神医学的なロマン主義が一定の系譜として存在する。一方で、20世紀の精神医学は逆に狂気を「治療すべき病」として扱ってきた。雫の主人公は、この二つの語法の真ん中に立っている。狂気に憧れながら、同時にそれを「壊れる」と表現する。憧憬と恐怖が同居している。

これは思春期男性の観念世界を、文学的に正確に書いている。授業中に世界を爆弾で破壊する妄想は、心理学の用語では「攻撃的空想」と呼ばれる。臨床的には病的とは限らず、現実への適応がうまくいかない時の代償行為として一般的だ。ただ、それを延々と描き、しかもその想念に「魅惑的な入口」のような言葉を与える書き方は、思春期の内省を文学化する伝統に乗っている。

髙橋龍也さんが安部公房や太宰治を明示的に意識していたかは知らない。ただ、結果として主人公の独白には日本近代文学のテクスチャがある。1996年のエロゲーで、この文体を出力できる書き手がいたという事実は、記録に値する。彼が後にアニメ脚本家に転身して『刀使ノ巫女』『ラーメン大好き小泉さん』『BEATLESS』のシリーズ構成を担当することになった——そのキャリアの出発点として、雫の文体は十分な根拠を持っている。

電波という比喩——なぜこの言葉が30年残ったのか

「電波系」という語彙が定着した理由を、教養の側から考えてみたい。

本作のヒロイン・月島瑠璃子は屋上で「電波を集めている」「私がアンテナになる」と語る。主人公と手を握りながら、「長瀬くんも、できるんでしょ?電波の受信」と問いかける。彼女の話し方は、無邪気な語尾と、現実からずれた内容の組み合わせでできている。

調べてみると、これは統合失調症の患者が見せる発話パターンの一つに非常に近い。具体的には「電波妄想」「させられ体験」「被影響妄想」と呼ばれる症状群で、自分の思考や行動が外部から操作されている、あるいは外部の存在と自分が特殊な回路で繋がっているという確信を伴う。「電波が届いた」「アンテナになる」という語彙選択は、精神医学の症例報告に出てくる実際の患者語彙とほぼ一致する。

つまり「電波系」という語彙が一作品から定着したのには理由がある。雫が書いた電波の語り口は、ファンタジーとしての電波ではなく、臨床的に観察される妄想体系の語彙をベースにしていたからだ。だからリアリティを持って読者の中に残り、現実に統合失調症的な発話を見せる人を見たときに「電波系っぽい」という認識のフックとして再利用できた。雫は単に強い手触りのガジェットを発明したのではなく、「現実に存在する精神症状の語り口」を物語に組み込んだから、語彙として現実に持ち帰れた。

もちろん、これを統合失調症の偏見的描写として批判する読み方も成立する。実際、現代の臨床心理の文脈では、症状を物語のガジェットとして消費することへの慎重な議論がある。1996年の作品としては、その慎重さまで踏み込んではいない。ここは現代基準で批判される余地がある。ただ、ぼくの軸——書き方の誠実さ——から見ると、瑠璃子の語り口は「症状の言語」を表面的に借用したのではなく、その語り口が生まれる心理を内側から書こうとしている。これは外側からの引用と別種の誠実さだ。

業界史の交差点——個別作品の品質を超える価値がある

歴史的意義に9をつける、その根拠を整理しておきたい。

第一に、ビジュアルノベルというジャンル名の自称の起源。第二に、「電波系」という日本語の語彙の発生源。第三に、業界中核人材の起点。この三つが重なる作品は、ジャンル史を見渡しても少ない。

三つ目について少し補足したい。シナリオの髙橋龍也さんはこの作品を起点に、雫→痕→To Heartの三作でLeafをトップメーカーへ引き上げた。音楽の折戸伸治さんは雫を最後にLeafを離れ、後にKeyの設立に参加してKanon・AIR・CLANNADの音楽を手がけた。さらに、雫・痕の二次創作を書いていたアマチュアライターの原田宇陀児さんが髙橋さんの目に留まり、Leaf/Aquaplusに採用されてWhite Albumのシナリオを書いた。一作品からこれだけの人材輩出があり、しかもその人たちが業界の方向を変えた——これは個別作品の品質を超えた、業界史の交差点としての価値だ。

2023年のアニメ『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』では、髙橋龍也さん自身がメインストーリーを担当して、雫・痕・To Heartの時代を再び題材にしている。30年経って、当時の書き手が当時を語る作品を作る、という構図そのものが、雫の歴史的位置を逆方向から証明している。ぼくは『16bitセンセーション』を見たあとに雫をプレイした。順序が逆だが、それでも雫が起点にあることはわかった。

歴史的意義の9は、これらの事実を踏まえた評点だ。10にしなかったのは、雫単体の品質が「時代を超えて読み続けられる傑作」のレベルかというと、そこは多くの人にとって意見が分かれるだろうから、現在の品質と歴史的意義を分けて評価する慎重さを残した。

9に届かない理由——ぼくの軸が当たらない領域がある

ぼくの評価軸でこの作品の限界を測ると、何が見えるか。

雫は、ぼくが普段使う教養の出番が限定的な作品だった。歴史考証もない、SF的厳密さも問えない、神話・宗教の引用もほぼない。1996年の現代日本の高校が舞台で、引用される文化的アイコンは少ない。教養を持ち寄って世界を厚くする、というタイプの作品ではない。

これは、ぼくの評価軸が直接当たらない作品でも、誠実に書かれていれば伝わるという経験に近い。雫はそれを違う角度——観念的狂気の側——でやっている。心理学・精神医学・私小説的伝統に「気づかずに」沿った書き方が成立している。これは「調べた跡がある」のと別種の誠実さだ。

9に届かない理由は、その「内側からの誠実さ」が「外側に開く広がり」を持たないことだ。例えば月島拓也のラスボスとしての絶叫——詳細はネタバレ版で論じる——にはニーチェ的な反道徳の修辞があるが、ニーチェ的な問いの方向には進まない。狂気が日本私小説のテクスチャを持っているのに、その先の哲学的問いには展開しない。「内側から書く誠実さ」はあるが「外側に開く広がり」が弱い。これは作者の選択でもあるし、限界でもある。8.0で止まる理由だ。

もう一点、世界の奥行きに7をつけた理由を補足しておく。舞台のK県E市S町という匿名性、教師・生徒・伯父という閉じた人物関係。これは物語上の必要性として理解できるが、教養の側から見ると「ゲーム内で語られない部分」の厚みが薄い。閉鎖空間の濃さで補っているが、世界そのものの広さは取りに行っていない。9をつけるには、街の歴史なり登場人物の文化的背景なりが、もう少し厚く必要だったと思う。

8.0の根拠——教養軸が半分しか効かない作品を、それでも評価する

「教養が作品を豊かにしているか」。それがぼくの評価軸だ。

雫は、その基準には完全には合格しない作品だ。教養を引用して書かれた作品ではない。ただ、ぼくの軸の「裏側」——教養を必要としない領域に内側から踏み込む誠実さ——は機能している。さらに、一作品が日本語の語彙を生み、ジャンル名を発明し、業界の人材輩出の起点になったという三重の歴史的事実は、教養の側から見ても記録に値する。

8.0は「明確な知識的根拠がある」という評点だ。雫の場合は「引用された知識」ではなく「内側から書かれた誠実さと、外側から評価できる歴史的事実」の二本立てで、その8.0が成り立っている。9には届かない。教養の側に大きく開いていく作品ではないからだ。でも8.0で止めることに迷いはない。

「いいから、黙ってこのゲームをやれ」——1996年のBBSで広まった口コミ文だ。30年経った今でも、このフレーズに乗せて勧める価値はあると思う。ぼくは「黙って」とは言わない。「教養の側から見ても、この作品は何をしたか説明できる」と言って勧める。それがぼくのやり方だ。

「雫は、教養を引用しないで書かれた作品だ。それでも、教養の側から測れば測るほど、この作品が業界史で何をしたかが見えてくる。30年前のエロゲーが日本語に語彙を残し、ジャンル名を残し、人材を残した——その事実を、ぼくは教養として記録しておきたい。」

— 大和仁

クリア後には、毒電波という設定の論理・月島拓也と長瀬祐介の鏡像構造・Hシーンの構造評価。そのあたりを具体的に踏み込んだ。プレイ後に読みに来てほしい。