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大和仁のレビュー — 雫(ネタバレあり)

大和仁
大和仁
教養の番人
8.0/10
8.0 / 10

毒電波・近親相姦・狂気の扉。三つの観念を1996年に並列したことの意味を、教養の側から測ってみた。

正直に言うと、ぼくの評価軸——歴史・科学・宗教・民俗学の知識的誠実さ——は、この作品には半分しか機能しない。雫が踏み込んでいるのは「思春期男子が抱える観念的狂気」の領域で、教養を引用して書かれた作品ではないからだ。それでも8.0をつける。毒電波というガジェットの論理が壊れていないこと、月島拓也と長瀬祐介の鏡像構造が精神病理として読めること、そしてこの作品が「電波系」という語彙そのものを生んだ歴史的事実。この三点を、教養の側から検証してみたい。

スコア詳細

設定の独自性 9
設定の整合性 8
世界の奥行き 7
文章力・描写力 8
歴史的意義 9
作品の尖り 9

毒電波という設定——疑似科学のフォーマットを正しく踏んでいる

まず、月島拓也が口にする「毒電波」という設定そのものを検証する。

月島はこう説明する。「もともと、人間の意志とか感情とかは、電気信号の集まりだろ?毒電波はそれを歪め、汚染してしまうんだ」。さらに「人間という動物は、自分の力に対して、無意識のうちにリミッターを設けてしまうものらしいね。僕は彼女のそれを外してあげたんだ」。この説明、面白いのは、現代神経科学の常識(脳活動は電気的)と、20世紀初頭の電気神秘主義の系譜が混ざっているところだ。

調べてみると、「電磁波が人間の思考を操る」という観念は1950〜60年代のアメリカで実際に流通した。マインドコントロール陰謀論の典型的なフォーマットで、現代でも統合失調症の症状報告に「電波で操られている」という訴えが頻出する。月島の語り口は、この症状報告の言語をほぼそのままドラマ用に翻案している。「リミッター」「電気信号レベルで誤動作」という言葉選びは、医学用語の素朴な借用としても、精神症状の患者本人の語彙としても整合する。

つまり毒電波は「ファンタジーの能力」ではなく、「臨床的に観察される妄想体系をそのまま能力として実体化したもの」として書かれている。これは1996年の作品としては相当に踏み込んだ書き方だ。作者の髙橋龍也さんがどこまで意識していたかはわからない。ただ結果として、月島の語りは「狂人の妄想が現実になった世界」というSFの伝統的な手つきに乗っている。フィリップ・K・ディックがやってきたことの、思春期男子版だと思えばいい。

整合性に8をつけた理由は、この内部論理が最後まで崩れないからだ。瑠璃子の方が先に電波の素質を持っていた、月島は瑠璃子を強姦することで電波を「もらった」、主人公は瑠璃子と合意の性交を経て電波を「受け取る」。この対称構造は、能力の起源を性的接触に固定することで、設定上の通用範囲を明確にしている。9に届かないのは、能力の物理的根拠(脳波なのか電磁波なのか)が最後まで曖昧なままで、月島の語り口に頼りきっているからだ。

月島と主人公——精神病理学の系譜で読むと、二人は同じ人間だ

この作品が「精神病理の二重像」を意図して作られているのは、ほぼ確信していい。

主人公・長瀬祐介は、授業中にノートに地球の絵を描いてそれを爆弾で破壊する妄想に酔う少年だ。「狂気。その言葉に僕は強く惹かれるのだった」と独白する。色のない無声映画のような世界を生きていて、太田香奈子が発狂したと聞いた時、最初に湧くのは恐怖ではなく親近感だ。彼自身、すでに狂気の扉に手をかけている。

月島拓也は、表向きは完璧な前期生徒会長だ。人望厚く、模範生として通用している。だが妹への屈折した執着と、サディスティックな支配欲を内側に飼っている。主人公が初めて月島の素顔を覗き見るシーン——生徒会室で淫欲の宴を主宰しながら「玩具って、いつかは飽きてしまうものだろう?」と笑う場面——あの瞬間、主人公は月島に対して「鏡に映った自分のような月島さん」という認識を持つ。これは作中で明示的に語られる。

調べてみると、この「分身殺し」という構造は、ドッペルゲンガー文学の系譜にちゃんと乗っている。ドストエフスキー『二重人格』、ホフマン『砂男』、ナボコフ『絶望』。主人公が出会う敵が「自分の暗部の擬人化」であり、敵を倒すことが自分の暗部を倒すことと等価になる構造。雫の最終バトル——主人公が月島の精神世界に入って幼児期の拓也と対峙する——は、この系譜にきれいに収まっている。

面白いのは、両者の分岐点が「瑠璃子に対して何をしたか」の一点だけだということだ。月島は伯父の家庭で受けた歪み(兄への暴力・夜の女の喘ぎ声)を、妹を強姦することで反復した。主人公は同じ歪みを抱えながら、瑠璃子と合意の性交を選び、彼女の記憶を共有して闇から救う方向に進んだ。同じ素材から、加害者と救済者が分かれた。この構図は、虐待の世代間連鎖という臨床心理学のテーマを真正面から扱っている。1996年に、エロゲーで、これをやった。「幅が広い」と言っていい。

ただ、惜しいのは伯父の描写がほぼ「悪い人だった」というスケッチで終わっていることだ。月島兄妹を引き取った医院長で、離婚して二人に暴力を振るって夜は女を連れ込む——これだけだと、虐待連鎖を理解した人間の書き方というより、悪役の記号としての配置に見える。月島の精神病理は丁寧なのに、その源泉である伯父が薄い。ここが世界の奥行きに7をつけた理由だ。

「狂気の扉」というモチーフ——日本の私小説的伝統から読む

主人公の独白に頻出する「狂気の扉」という言葉。ぼくはこれを民俗学・宗教学から読みたい。

主人公はこう言う。「『壊れること』にはもうひとつの意味があるのだった。つまらない現実を離れ、そのすぐ裏側にある、別の世界の扉を『開く』という意味が」。狂気を「扉」として、現実の裏側にある別世界への入口とみなす発想だ。

これは日本の私小説的伝統と、近代以降の精神医学の言語が混ざった独特の表現だ。横光利一『機械』、坂口安吾『風博士』、中島らも『今夜、すべてのバーで』——日本の文学には「狂気は世界の真実を見るための窓だ」という反精神医学的なロマン主義が一定の系譜として存在する。一方で、20世紀の精神医学は逆に狂気を「閉ざすべき扉」「治療すべき病」として扱ってきた。雫の主人公は、この二つの語法の真ん中に立っている。狂気に憧れながら、同時にそれを「壊れる」と表現する。憧憬と恐怖が同居している。

これはね、若い男性が「現実への倦怠と全能感」を同時に持つときの心理状態を、文学的に正確に書いている。授業中に世界を爆弾で破壊する妄想は、思春期男性に頻出する想念で、心理学の用語では「攻撃的空想」と呼ばれる。臨床的には病的とは限らず、現実への適応がうまくいかない時の代償行為として一般的だ。ただ、それを延々と描き、しかもその想念に「魅惑的な入口」のような言葉を与える書き方は、思春期の内省を文学化する伝統に乗っている。

髙橋龍也さんが安部公房や太宰治を意識して書いたかは知らない。ただ、結果として主人公の独白には日本近代文学の私小説的なテクスチャがある。文章力に8をつけた根拠の一つはここだ。「正気きょうき苦痛かいらく現実もうそう正常いじょう理性よくぼう束縛かいほう」——この呪文のような並列は、当時のエロゲーのテキストとしては異例の密度を持っている。1996年に、この文体を出力できる書き手がいたという事実は、記録に値する。

瑠璃子の語り口——統合失調症の発話パターンが踏まえられている

瑠璃子の屋上での発言を、精神医学の側から見るとどう読めるか。

瑠璃子は「私、ここで毎日、電波を集めているの。…私がアンテナになるの」「ラジオとおんなじなの」と語る。主人公と手を握ると「長瀬くんも、できるんでしょ?電波の受信」と言う。彼女の話し方は、無邪気な童女のような語尾と、現実からずれた内容の組み合わせでできている。

調べてみると、これは統合失調症の患者が見せる発話パターンの一つに非常に近い。具体的には「させられ体験」「電波妄想」「被影響妄想」と呼ばれる症状群で、自分の思考や行動が外部から操作されている、あるいは外部の存在と自分が特殊な回路で繋がっているという確信を伴う。「電波が届いた」「アンテナになる」という語彙選択は、症例報告に出てくる実際の患者語彙とほぼ一致する。

すごいのは、瑠璃子のこの語り口が「演出としての電波系」ではなく、「実際の臨床言語をベースにした書き方」になっていることだ。「童女のように笑う」「焦点の合わない目」「壊れた者の目」という外形的描写も、若年発症の統合失調症の急性期にしばしば見られる「軽躁的・解離的な表出」と一致する。1996年のエロゲーで、これだけ正確に精神症状の語り口を再現したヒロインを書いた作者は、相当に踏み込んで観察するか調べるかしている。

もちろん、瑠璃子は単に病的なヒロインとして書かれているわけではない。作中では実際に電波を受信する能力者として描かれる。「妄想が現実になった世界」という設定の中で、彼女の語り口は「症状の言語」を「能力の言語」に変換する装置として機能している。これが詭弁にならずに済んでいるのは、彼女自身が「助けて、助けて」と心の中で泣き続けている被害者であり、能力者であることが救いになっていないからだ。能力を肯定的な意味で扱っていない。狂気を「美化された才能」として書く悪い癖を、この作品は注意深く避けている。

瑠璃子に関しては「ぼくの評価軸が当たる作品」だと思った。ヒロイン造形が、文学的にも臨床的にも誠実に書かれている。

Hシーンの評価——「強姦と合意の鏡像」を構造化した稀な作品

Hシーンを知識的・文学的観点から見ていきたい。エレナさんの実用性軸とは別の話だ。

雫のHシーンは、ぼくがプレイした1996年前後のエロゲーの中でも特異な構造を持っている。明確な合意は瑠璃子と沙織の2シーンだけで、残りはすべて毒電波下での強制陵辱だ。主人公が射精する場面ですら罪悪感と嫌悪感が支配的で、いわゆる「ご褒美シーン」として機能していない。

特に注目するのは、瑠璃子との性交が二つの形で描き分けられていることだ。「劣情に身をまかせ」を選ぶと強姦バッドに分岐し、選ばないと合意の覚醒シーンになる。同じ場所、同じ相手、同じ状況で、選択肢一つによって「月島と同じ罪を犯す」か「月島と分かれる道に進む」かが決まる。これは構造の話としては前のセクションで触れたが、Hシーンの組み立てとしても重要だ。「主人公が月島になる可能性」をプレイヤーに体感させるための装置として、Hシーンが機能している。エロを物語の必然として組み込む手法——これは現代のエロゲーで標準的になった手つきだが、1996年に明確にやっていた作品はそう多くない。歴史的に見ると、雫はこの手法の最初期の実装例だ。

瑠璃子と主人公の合意シーンの文章には、はっきりと工夫がある。月光と埃のキラキラ、ブラジャーの外し方を知らない主人公、破瓜の鮮血が出なかったという描写——「瑠璃子は処女ではない」という事実をH描写の中に静かに織り込むやり方は、文学的にも巧い。「兄に強姦された過去」を後で説明するのではなく、Hシーンの身体描写そのものに刻印する。読み返した時、この一文の重さが効いてくる。

沙織のシーンは、別の意味で注目する。月島の電波で身体が異常に火照らされた沙織が「拭いて」と懇願する場面から始まり、徐々に合意に転じる。これは現代の倫理基準では「半合意」と呼ぶべき微妙な領域だが、当時のエロゲーで「ヒロインの自発性と外的刺激の混合状態」を意識的に書いている作品は珍しい。沙織の極度の緊張と失禁、初体験への怯えがきちんと書き込まれていて、エロとしてではなく人間描写としてのリアリティがある。

一方で、卒業式集団狂乱や玩具堕ちエンドのような完全強制シーンは、ぼくの評価軸では文学的に高くはない。月島の野望——「親子であろうと、兄弟であろうと、女同士だろうと、男同士だろうと、子供だろうと、老人だろうと、赤ん坊だろうと、全員残らず性器を結合させて」——この絶叫は明確にニーチェ的な反道徳の修辞を借用しているが、その先の哲学的展開はない。ただの暴走として置かれている。教養的な引用としては薄い。

ただね、ぼくはこの「薄さ」を低評価したくはない。月島という人物が「教養を持って書ける狂人」ではなく「思春期男性の屈折を肥大化させただけの狂人」として書かれていることが、この作品の正しさだとも思うからだ。哲学的に深い悪役は、しばしば作者の自己投影で薄っぺらくなる。月島は哲学を持たない。だから怖い。これは作者の選択として理解できる。

異次元人編——文学的責任のリリースとして読む

瑠璃子両エンド達成後に開放される裏シナリオ「異次元人編」について。

瑠璃子トゥルー(バッド/ハッピー)両方を見たあとに開放される裏シナリオは、本編とは全く違うトーンの戦隊コメディだ。アストラルバスターズと名乗る瑠璃子・沙織・瑞穂の三人娘が、異次元人のジローくん・二の前一・ORIBASS・赤玉パンチのブルルン・ろでぃます・次元皇帝エンペラーリーフを倒す。シナリオ担当の「ろでぃます」自身が敵キャラとして登場し、メタ的にプレイヤーに語りかける。

これね、最初に見たときは「ふざけているな」と思った。本編の重さと釣り合わない、ただのお祭り企画に見える。でも調べてみると、これは文学的伝統に乗っている。狂気と暴力を書いた作家が、その重さを引き受け切れずに「軽い書き物」で自己解毒する例は、近代以降の純文学で何度も観察されている。芥川龍之介の保吉物、太宰治の戯作的短編、大江健三郎の童話的散文。本編で重い主題を抱え込んだ書き手が、同じ作品集の中に意図的に「軽さ」を置いて、自分自身が逃げる場所を作る。

異次元人編もこれだと思う。主人公・瑠璃子・月島という重い物語を書ききった作者が、最後にアストラルバスターズで自分を笑わせる場所を作った。プレイヤーへのご褒美というよりは、書き手の自己解毒装置だ。だからこれを「蛇足」とは思わない。本編の重さを成立させるための、構造上の安全弁として機能している。

もちろん作劇上の「巧みさ」として高く評価できるかというと、別の話だ。エンペラーリーフ戦の選択肢——大回転・ハイジャンプ・エビ反り・分身魔球で死亡、愛で勝利——のギャグは、笑いとしてはチエさんの専門領域だろう。ぼくにはコメディのセンスは弱くて、ここを面白く語ることはできない。ただ、この裏シナリオが「文学的な構造としてなぜ必要か」は説明できる、というだけだ。

「電波系」という語彙の起源——歴史的事実として9をつける

歴史的意義に9をつけた根拠を、最後に整理しておきたい。

「電波系」という日本語表現が、雫の毒電波を直接の起源とすることは、複数の資料で記録されている。Wikipedia「電波系」項目、ニコニコ大百科、当時のBBSログ。1996年以前にこの用法はなく、雫以後に急速に普及して、現代ではエロゲーやサブカル全般を超えて、Twitterの俗語にまで広がった。語彙そのものが一作品から生まれてオタク文化の共通言語になった、これは相当に稀な事例だ。

調べてみると、近い例として「セカイ系」がある。これは新海誠『ほしのこえ』周辺から派生して、評論家の宇野常寛さんや東浩紀さんの議論を経て学術用語に定着した。ただ「セカイ系」は批評家側からの命名で、作品自身がその言葉を発したわけではない。一方「電波系」は、作品の中で月島拓也が「毒電波」を語り、ファンがそれを「電波ゲー」と呼び、ジャンル名として固定した。作品自身が語彙を発信した点で、「電波系」の方が起源として純粋だ。

もう一つの歴史的意義は、ビジュアルノベルというジャンル名の自称が雫から始まったことだ。「リーフ・ビジュアルノベルシリーズ第1作」という看板は、髙橋龍也さんがLeaf入社時に「かまいたちの夜のようなものが書ける」とアピールしたことに起源がある。サウンドノベルとの差別化として、全画面テキスト表示と立ち絵・背景・イベントCGの統合表示を採用した。これが現代まで続くビジュアルノベルというジャンルの形式的な原型になった。

もう一つだけ補足する。折戸伸治さんが雫を最後にLeafを離れて、後にKey設立に参加し、Kanon・AIR・CLANNADの音楽を手がけた。原田宇陀児さんは雫・痕の二次創作を書いていてLeafに引き抜かれ、WHITE ALBUMのシナリオを書いた。雫という一作品が、その後の業界の人材輩出の起点になっている。これは個別の作品の品質を超えた、業界史の交差点としての価値だ。

歴史的意義の9は、これらの事実を踏まえた評点だ。10にしなかったのは、雫単体の品質が「時代を超えて読み続けられる傑作」のレベルかというと、そこは多くの人にとって意見が分かれるだろうから、現在の品質と歴史的意義を分けて評価する慎重さを残した。

8.0の全体像——教養軸が半分しか効かない作品を、それでも評価する

最後に、ぼくの評価軸が「教養が作品を豊かにしているか」であることを、もう一度確認する。

雫は、ぼくが普段使う教養の出番が限定的な作品だった。歴史考証もない、SF的厳密さも問えない、神話・宗教の引用もほぼない。1996年の現代日本の高校が舞台で、引用される文化的アイコンは少ない。教養の作品ではない。

それでも8.0をつけるのは、ぼくの軸の「裏側」が機能したからだ。「教養を引用していない」のではなく「教養を必要としない領域に踏み込んでいる」——思春期男性の観念世界、統合失調症的な発話パターン、虐待連鎖と分身殺し、こうした主題は、教養として外から引用するよりも、内側から正確に書く方が難しい。雫はそれを内側から書こうとしている。心理学・精神医学・私小説的伝統に「気づかずに」沿った書き方ができている。これは「調べた跡がある」のと別種の誠実さだ。

こういう状況はね、ぼくの評価軸が直接当たらない作品でも、誠実に書かれていれば伝わるという経験に近い。雫はそれを違う角度——観念的狂気の側——でやった。

9に届かない理由は、伯父の描写の薄さ・教養的引用の少なさ・哲学的展開の不在だ。月島の絶叫がニーチェ的なのに、ニーチェの方向には進まない。狂気の扉が日本私小説のテクスチャを持っているのに、その先の問いには展開しない。「内側から書く誠実さ」はあるが「外側に開く広がり」が弱い。これは作者の選択でもあるし、限界でもある。8.0で止まる理由だ。

1996年に、エロゲーで、これを書いた書き手が後に『刀使ノ巫女』『ラーメン大好き小泉さん』のシリーズ構成を担当し、『16bitセンセーション ANOTHER LAYER』で雫・痕の時代を再び題材にした。髙橋龍也さんという書き手の出発点として、雫を読む価値は今でも十分にある。ぼくはそう判断した。

「雫が教えてくれたのは、教養がない作品にも誠実さはあるということだった。観念の側から正確に書かれた狂気は、外側の知識で武装した狂気と同じ重みを持つ。それを30年前のエロゲーが示していたという事実が、ぼくにとっての発見だった。」

— 大和仁

8.0。