雰囲気で済ませず、ちゃんと調べた上で雰囲気を作っている。
人類滅亡まで残り1週間。そう聞くと、ぼくは身構える。終末という大きな言葉を借りて中身は雰囲気だけ、という作品が多いからだ。ところがこの作品は、心臓病の医療描写、月の起源説や星座の天文知識、寺山修司やショーペンハウアーの引用——そのどれもが嘘をついていない。しかも知識自慢で止まらず、寂寥感そのものを支える材料として置かれている。3時間という短さも知識的には正しい判断だ。文章の華がもう一段あればと思う場面はあるが、調べた上で雰囲気を作っている誠実さに8.0点を置いた。ぼくの基準ではかなり高い。
スコア詳細
「終末もの」の知識的誠実さを測りに来た
1999年、アボガドパワーズ。人類滅亡まで残り1週間、という設定の18禁ノベルだ。
こういう「終末まであと少し」型の作品は、ぼくにとっては要注意ジャンルでね。世界の終わりという大きな言葉を借りておきながら、中身は雰囲気だけで済ませている作品が本当に多い。終末の原因を説明できない、社会がどう壊れるか描けない、ただ感傷的な空気だけが先行する。そういうのを内輪参照と呼んで警戒している。だから最初は身構えて手を出した。
シナリオは大槻涼樹。主人公・耕野知裕が私立緑山高校で過ごす月曜から土曜の6日間を描く短編集だ。元陸上部だが靭帯を切って退部した受け身の少年が、両親不在の家にいても気が滅入るというだけの理由で登校している。教室には元カノの宮森香織、保健室には咥え煙草の養護教諭・大塚留希、屋上には天文部の大村いろはと稲穂歌奈、図書室には幼なじみの敷島緑、グラウンドには陸上の瑞沢千絵子。月から土の6日間を歩き、彼ら彼女らの小さな物語に立ち会っていく。全ルート合わせて3時間ほどしかない。短い。ただ、その短さの中に置かれている知識の手触りが、想像よりずっと地に足がついていた。
心臓病と星空——細部に嘘がない
この作品の知識的な背骨は、屋上の天文部部長・大村いろはの存在にある。
いろは——星の話をしている時だけ生き生きする少女なんだけど——彼女は洞機能不全症候群という心臓の病を抱えている。木曜、屋上で異変が起きたとき、養護教諭の留希がその病名と治療を語る。ここの説明が、良い意味で引っかかった。調べると、洞機能不全症候群は実在する不整脈疾患で、心臓のリズムを刻む洞結節の機能が落ちることで起きる。作中で挙げられる治療——アトロピン投与、β1刺激、イソプロテレノール、そしてペースメーカー埋め込み——これは現実の治療選択肢とちゃんと一致している。雰囲気で並べた医学風の単語ではなく、論理的に繋がった処置の列なんだよ。
面白いのは、いろはのペースメーカーが過去に止まりかけた原因が「携帯電話・PHSの電磁波による動作不良」とされている点。これは1990年代に実際に問題視された現象で、当時、心臓ペースメーカーへの電磁干渉が社会的な議論になっていた。1999年という発売年と、この電磁波エピソードの時代性が完全に噛み合っている。作者はその時代の医療事情を踏まえて書いている。「調べた跡」がある。
屋上の天文も同じだ。火曜、いろはと歌奈が月の起源4説(親子説・兄弟説・他人説・出産説)を語る。これは天文学で実際に唱えられてきた月形成仮説の分類とおおむね対応していて、出産説はいまの主流に近い。望遠鏡で挙がる「望遠鏡座」も、18世紀のラカイユが設定した実在の南天の星座だ。屋上で星を見上げる少女の口から出る星座として、これ以上ない選び方だと思った。科学が未決着だという事実を、そのまま人類滅亡のテーマに重ねている。知識の使い方として巧妙だ。
引用の出典が分かっている
文学・心理学の引用にも、ちゃんと根拠がある。
図書室の緑——知裕の隣家の幼なじみで、坂口安吾を愛読する読書家なんだけど——彼女が「ヒトを進化させたのは火でも道具でもなく文字だ」という持論を披露する。それに対して知裕が寺山修司の「書を捨てよ、街に出よう」を持ち出して反論する。書物の知識と実体験の対立という古典的な主題を、ちゃんと出典のある言葉でぶつけている。緑が坂口安吾を読んでいるという設定も、終末という主題に対して「堕落論」を想起させる目配せだと読めた。少なくとも作者の文学的な引き出しは浅くない。
知裕がモノローグで使う「ヤマアラシのジレンマ」も同じだ。互いに身を寄せたいのにトゲで傷つけ合う、という比喩で、ショーペンハウアーの寓話を源流とする心理学の有名な概念だね。対概念として「パーソナルスペース」を並べるあたり、心理学の語彙を理解した上で使っている。知識が散らばっているのではなく、登場人物どうしの距離の問題に正しく接続されている。ここが大事で、引用が飾りで終わっていない。香織との関係を語るために、その比喩が必要だから引かれている。
終末下の社会と、世界の奥行き
設定考察として感心したのは、終末に向かう社会のディテールだ。
滅亡そのものの正体は核心に関わるのでここでは触れないが、終末下の社会の描き方は具体的だ。疎開という言葉が「戦後半世紀ぶりに復活した」風習として出てくる。これは正確で、疎開はまさに戦時の用語だね。各地で暴動が起き、政府が情報統制を敷き、それに抗してラジオDJが放送を続ける。ニュースの断片が日々のラジオで流れ、学校の外の世界がじわじわ壊れていくのが伝わってくる。感傷だけが先行するのではなく、滅亡に向かう社会の反応がきちんと積まれている。これが雰囲気を空疎にしない支えになっている。
世界の奥行きという点では、本編に一度も登場しない人々が効いている。屋上の壁に刻まれた「YOKO×YUJI」という落書き。当事者は最後まで出てこない。知裕が屋上に上がるたびにこの落書きが目に入り、「希望を胸にしてか、絶望を抱いてか。――与り知らぬ事だ」と突き放す。校内をうろつけば、終末を前に「最後にやりたいことをやる」名もなき生徒たちの姿も視界に入る。彼らは攻略対象ではないモブだけれど、世界が主人公のためだけに用意されていないことを示している。この感触が、世界の奥行きの根拠だ。
グラウンド脇でパンを食べている年上の男・重久の存在も触れておきたい。彼が知裕に語る「人間は自分の中に穴を掘る」という話。抑うつや回避の心理を、説教臭くなくパンを食べる男の口語に落とし込めている。大きな概念を日常の言葉に翻訳できているのは、知識を消化している証拠だ。彼の正体については、クリアしてから語ることにする。
文章そのものへの、正直な評価
褒めてばかりも不誠実なので、引っかかった点にも触れておきたい。
文章そのものは名文ではない。知裕のモノローグは、終盤でロメロの映画「ゾンビ」やバベルの塔・ピラミッドを引いて「日常にしがみつく自分たち」を死者になぞらえる。引用そのものは適切なんだけど、レトリックがやや力みすぎていて、文学的な切れ味では一級とは言いにくい。同じ言い回しを繰り返す箇所も、効果は分かるが洗練の一歩手前だ。だから文章力は7点に留めた。知識は誠実だが、その知識を載せる文体までが磨かれているわけではない。そこは区別しておきたい。知識の正確さと、文章の華は別の評価軸だからね。
8.0——知識が雰囲気に奉仕している、稀な雰囲気ゲー
雰囲気ゲーという言葉を、ぼくはあまり信用していない。たいてい、調べていないことの言い訳に使われるから。
でもこの作品は違った。心臓病の医療描写、月の起源説と星座の天文、寺山修司とショーペンハウアーの引用、終末下の社会反応。そのどれもが、嘘をついていない。しかも知識自慢で止まらず、いろはの存在や香織との距離、終末そのものの主題に接続されている。調べた上で、調べたことを雰囲気のために使っている。これはぼくの評価軸でいちばん高く付く型だ。
3時間という短さも、知識的に言えば正しい。これ以上引き延ばせば、空白にしておくべき部分を埋めたくなる誘惑に負けて、整合性が崩れただろう。短さは欠点ではなく、知識的誠実さを保つための分量だ。文章の華がもう一段あれば9点に届いたと思う。それでも8.0。プレイして「知らなかったことを知り、しかもそれが作品の血肉だった」作品に、ぼくはこの点数を出す。やる価値がある一作だ。
