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大和仁のレビュー — 終末の過ごし方(ネタバレあり)

大和仁
大和仁
調べてから泣くタイプ
8.0/10
8.0 / 10

雰囲気で済ませず、ちゃんと調べた上で雰囲気を作っている。

ネタバレ込みで、この作品の「知識の使い方」を腑分けする。大村いろはの洞機能不全症候群、月の起源4説、ペルセウス座流星群、寺山修司、ロメロの「ゾンビ」、バベルの塔——これらは飾りではなく、寂寥感そのものを支える材料として置かれている。洞結節・アトロピン・イソプロテレノールという心臓病の語彙が正確で、それがいろはの運命と直結している。天文の細部に嘘がない。引用の出典が分かっていて引かれている。終末の原因をあえて説明しないという判断にも理由がある。文章そのものに名文の華はないが、知識的に誠実な雰囲気ゲーとして8.0点を置いた。これはぼくの基準では高い。

スコア詳細

設定の整合性 8
世界の奥行き 8
医療・天文の誠実さ 8
テーマ・メッセージ性 8
文章力・描写力 7
作品の唯一無二性 8

「終末もの」の知識的誠実さを測りに来た

1999年、アボガドパワーズ。人類滅亡まで残り1週間、という設定の18禁ノベルだ。

こういう「終末まであと少し」型の作品は、ぼくにとっては要注意ジャンルでね。世界の終わりという大きな言葉を借りておきながら、中身は「雰囲気だけ」で済ませている作品が本当に多い。終末の原因を説明できない、社会がどう壊れるか描けない、ただ感傷的な空気だけが先行する。そういう作品を内輪参照と呼んでいる。だから最初は身構えて手を出した。

結論から言うと、これは身構えた割に当たりだった。シナリオは大槻涼樹。主人公・耕野知裕が私立緑山高校で過ごす月曜から土曜の6日間を描く、4人のヒロインを攻略する短編集だ。全ルート合わせて3時間ほどしかない。短い。ただ、その短さの中に置かれている知識の手触りが、想像よりずっと地に足がついていた。以下、なぜ8.0点なのかを、具体的な材料を名指しで挙げながら話したい。クリア済みの人に向けて、結末まで踏み込む内容だ。

大村いろはの心臓——医療描写が運命に直結している

この作品の知識的な背骨は、間違いなく大村いろはの心臓病だ。

いろは——屋上の天文部部長で、星の話をしている時だけ生き生きする少女なんだけど——彼女は洞機能不全症候群を抱えている。木曜、屋上で発作を起こして倒れ、知裕が保健室に運び込む。そこで養護教諭の留希が病名を告げる。ここの説明が、ぼくには引っかかった。良い意味で。

調べると、洞機能不全症候群は実在する不整脈疾患で、心臓のリズムを刻む洞結節の機能が落ちることで起きる。作中で留希が挙げる治療——アトロピン投与、β1刺激、イソプロテレノール、そしてペースメーカー埋め込み——これは現実の治療選択肢とちゃんと一致している。アトロピンは迷走神経を抑えて心拍を上げる薬で、イソプロテレノールは洞結節の自動能を促す。雰囲気で並べた医学風の単語ではなく、論理的に繋がった処置の列なんだよ。

面白いのはここからで。いろはのペースメーカーが2年前に止まりかけた原因が「携帯電話・PHSの電磁波による動作不良」とされている。これは1990年代に実際に問題視された現象でね。当時、心臓ペースメーカーへの電磁干渉が社会的な議論になっていて、防磁タイプへの切り替えが推奨された時期があった。作中でも防磁タイプへの交換が提案され、いろはがそれを拒否している。1999年という発売年と、この電磁波エピソードの時代性が完全に噛み合っている。作者はその時代の医療事情を踏まえて書いている。これは「調べた跡」だ。

そして大事なのは、この正確さが知識自慢で終わっていないこと。金曜の屋上でいろはが鍵を空に投げ捨てて「世界に…2人しかいないみたいでしょ」と知裕を誘う。心臓に負担がかかると承知の上で関係を結び、事後に膝枕で「私が…君を守ってあげる」「わたしがこの世界でする――最期の約束」と告げる。彼女の「止まっても…それはただの結果。大事なのは…私が、誰と、何をしたのか…」という台詞は、洞結節が止まるという医学的事実を、そのまま生き方の宣言に転化している。医療の正確さが、キャラクターの哲学と運命に血肉化している。ここが評価の中心だ。

天文と引用——細部に嘘がないから寂寥感が成立する

屋上の天文部という設定も、ただの舞台装置ではなかった。

火曜の屋上で、いろはと歌奈が月の起源4説を語る。親子説(地球のマントルが分離した)、兄弟説(地球と同時にできた)、他人説(重力で捕まえた)、出産説(隕石衝突でマントルが飛び出した)。これ、天文学で実際に唱えられてきた月形成仮説の分類とおおむね対応している。出産説はいまの主流であるジャイアント・インパクト説に近い。いろはが「どれが正解なのか…それとも全部違っているのかは解らずじまい。結局、ヒトは月がそこにある理由すら知らずに消えてしまうんだよね」と締める。科学的に未決着であるという事実を、そのまま人類滅亡のテーマに重ねている。これは知識の使い方として巧妙だ。

細かいところでは、いろはが望遠鏡で空を見ながら「望遠鏡座」を挙げる場面がある。望遠鏡座は実在する南天の星座で、18世紀のフランスの天文学者ラカイユが設定したものだ。元は天文観測の筒をかたどっている。屋上で星を見上げる少女の口から出る星座として、これ以上ない選び方だと思った。土曜のいろはルートで語られるペルセウス座流星群も、8月の代表的な流星群で、いろはが言う「毎時50個」という規模感も実態とズレていない。スペースデブリが燃える速度の話も含めて、天文の細部に手抜きがない。

引用の出典も分かっている。図書室のが披露する敷島流進化論——「ヒトを進化させたのは火でも道具でもなく文字」という持論に対して、知裕が寺山修司の「書を捨てよ、街に出よう」を持ち出して反論する。書物の知識と実体験の対立、という古典的な主題を、ちゃんと出典のある言葉でぶつけている。緑が坂口安吾を愛読しているという設定も、終末という主題に対して「堕落論」を想起させる目配せだと読めた。これは深読みかもしれないけれど、少なくとも作者の文学的な引き出しは浅くない。

金曜の香織ルートで知裕がモノローグで使う「ヤマアラシのジレンマ」も同じだ。互いに身を寄せたいのにトゲで傷つけ合う、という比喩で、ショーペンハウアーの寓話を源流とする心理学の有名な概念だね。対概念として「パーソナルスペース」を並べるあたり、心理学の語彙を理解した上で使っている。知識が散らばっているのではなく、香織との4年前の自然消滅という具体的な関係の説明に正しく接続されている。

終末の社会描写——「説明しない」という判断の根拠

設定考察として一番悩んだのは、終末の原因が最後まで明かされない点だ。

普通なら減点する。終末SFなら、何が人類を滅ぼすのかを示すのが筋だろう、と。ところがこの作品は国連戦争禁止宣言から8週間、日本非常事態宣言から7週間という時間軸だけを提示して、滅亡そのものの正体——隕石なのか核なのか疫病なのか——を最後まで言わない。最初はこれを逃げだと思った。でも考え直した。

この作品の主題は「終末をどう過ごすか」であって「終末とは何か」ではない。原因を特定した瞬間に、物語はその原因への対処(避難・抵抗・治療)の話になってしまう。原因を空白にしているから、登場人物たちは「ただ終わりを待つ人間」でいられる。説明しないことが、テーマの純度を守るための積極的な選択になっている。これは無知による空白ではなく、意図のある空白だと判断した。だから減点しなかった。

その代わり、終末下の社会のディテールはきちんと積まれている。疎開という言葉が「戦後半世紀ぶりに復活した」風習として出てくる。これは正確で、疎開はまさに戦時の用語だ。水曜に歌奈の友達が疎開していく。大阪天王寺暴動や横浜暴動(死者70名超)がラジオで報じられ、木曜からは政府が全テレビを政府指導放送に切り替えて情報統制を敷く。それに対してD.J.WALK電波ジャックで放送を続ける。滅亡の原因は空白なのに、滅亡に向かう社会の反応は具体的に書かれている。この非対称が、雰囲気を空疎にしない支えになっている。

世界の奥行きという点では、本編に一度も登場しない人物たちが効いている。屋上の壁の「YOKO×YUJI」という落書き。当事者は最後まで出てこない。知裕が屋上に上がるたびにこの落書きが目に入り、「希望を胸にしてか、絶望を抱いてか。――与り知らぬ事だ」と突き放す。火曜の空教室のカップル、木曜のレズビアンの女生徒。彼らは攻略対象ではないモブだけれど、終末下で「最後にやりたいことをやる」名もなき他者として配置されている。世界が主人公のためだけに用意されていない。この感触が、世界の奥行き8点の根拠だ。

重久の哲学と、文章そのものへの正直な評価

サブカップルのうち、重久という男の造形には知識的な誠実さがある。

重久——グラウンド脇の木の下でパンを食べている飄々とした年上の男なんだけど——彼は火曜、知裕に兄の話をする。32歳の教師だった兄が、14歳の少女と無理心中した過去だ。重久が語る「人間は自分の中に穴を掘るんだ。深すぎて誰も降りてこられないくらい深い穴を掘り、自分で出られなくなる」という比喩。そして「逃げちまえば自殺さ。終末を『救い』だと思っちまえばそれは自殺と変わらない」という終末観。これは抑うつや自殺の心理を、説教臭くなく形象化している。大きな概念を、パンを食べる男の口語に落とし込めている。木曜に千絵子へ「無心に走る事で…考える事から逃げてる」と指摘する流れも、回避行動の心理として筋が通っている。

土曜、その重久が3年前に千絵子の中学の陸上顧問「松原先生」だったと明かされる。千絵子が「私…あなたの名字も知らないんだけど…」とこぼす。ここは伏線として綺麗に閉じている。知識の話とは別だけれど、構成の手つきは丁寧だと認めておく。

正直に言うと、文章そのものは名文ではない。知裕のモノローグは、エンディングで「ゾンビ」(ロメロの映画で、死者が生前の習慣でデパートを徘徊する話)やバベルの塔ピラミッドを引いて「日常にしがみつく自分たち」を死者になぞらえる。引用そのものは適切なんだけど、レトリックがやや力みすぎていて、文学的な切れ味では一級とは言いにくい。「2人だから、何とかなると思う」を4回繰り返すラストも、効果は分かるが洗練の一歩手前だ。だから文章力は7点に留めた。知識は誠実だが、その知識を載せる文体までが磨かれているわけではない。そこは区別しておきたい。

8.0——知識が雰囲気に奉仕している、稀な雰囲気ゲー

雰囲気ゲーという言葉を、ぼくはあまり信用していない。たいてい、調べていないことの言い訳に使われるから。

でもこの作品は違った。洞機能不全症候群の医療描写、月の起源4説と望遠鏡座の天文、寺山修司とショーペンハウアーの引用、終末下の社会反応。そのどれもが、嘘をついていない。しかも知識自慢で止まらず、いろはの運命、香織との距離、終末そのものの主題に接続されている。調べた上で、調べたことを雰囲気のために使っている。これはぼくの評価軸でいちばん高く付く型だ。終末の原因を語らないという空白さえ、テーマの純度を守る計算として読めた。

3時間という短さも、知識的に言えば正しい。これ以上引き延ばせば、空白にしておいた終末の正体を埋めたくなる誘惑に負けて、整合性が崩れただろう。短さは欠点ではなく、知識的誠実さを保つための分量だ。文章の華がもう一段あれば9点に届いたと思う。それでも8.0。ぼくの基準では、プレイして「知らなかったことを知り、しかもそれが作品の血肉だった」作品に出す点数だ。留希が言う「無為に生きるか、有意義に死ぬか」という台詞——この作品自体が、有意義に作られている。