ぼくの知識軸が働く題材はほぼない現代純愛もの。純愛劇としては達者で、会話に紛れた画家名の一本の糸は光る。でもぼくの軸では7.0が正直だ。
1998年Leaf。週単位スケジュールで時間配分そのものが分岐になる、パラメータ型恋愛ADVだよ。主人公・藤井冬弥は大学生で、恋人はデビュー1年目のアイドル歌手・森川由綺。「会いたいのに会えない」を、テキストで描くのではなく、プレイヤーに時間を奪わせる形で体験させる作りだ。純愛劇としては達者だと思う。感情の運びも文章も丁寧で、そこは素直に認める。ただ正直に言うと、ぼくが普段使う知識——歴史考証や科学的合理性、民俗学の裏付け——の出番はほぼない。設定が現実の知識と噛み合っているか、世界の奥行きに本物の裏付けがあるか、というぼくの軸が働く題材が、この作品にはほとんど無いんだよ。唯一ぼくの軸に引っかかったのは、会話の中で名指しされるシュルレアリスム画家の名前が、緒方理奈というキャラの主題とちゃんと接続していた一点。ここには内輪参照ではない教養の痕跡がある。その一本の糸は評価したい。でも軸全体は不発だ。純愛劇としての達者さと、画家名の糸一本ぶん。それを足して、点数は7.0でつけた。
スコア詳細
1998年という文脈、そして詩として読む歌詞
プレイする前から、この作品はぼくの評価軸では測りにくいだろうと思っていた。
歴史ものでもSFでもオカルトでもない、現代の恋愛もの。ぼくの知識——時代考証だとか科学的合理性だとか民俗学だとか——の出番がほぼないジャンルだよ。じゃあ何を見ればいいのか。最初の数時間、正直に言うと、評価の足場を探すのに苦労した。週単位でスケジュールを選び、行動を割り振り、誰と会う約束を結ぶかを決める。淡々とその作業を繰り返しながら、ぼくは「これ、ぼくの評価軸では7点あたりだろうな」と思っていた。そして最後まで通してみて、その見立ては大きくは動かなかった。ぼくの軸——設定が現実の知識と噛み合っているか、世界の奥行きに本物の裏付けがあるか——が働く題材が、この作品には最後までほとんど無かったからだ。これは作品の欠点ではない。純愛の恋愛劇にぼくの知識軸を当てにいくほうが場違いなんだよ。ジャンルが悪いのではなく、ぼくの物差しが噛む相手ではない、というだけの話だ。
そのうえで、純愛劇としては丁寧に書けている、というのは先に言っておきたい。劇中で「歌」が何度も流れて、森川由綺のデビュー曲『WHITE ALBUM』、人気アイドル緒方理奈の『SOUND OF DESTINY』の歌詞が挿し込まれる。曲そのものの良し悪しはぼくの専門じゃない。でも、その歌詞をテキストとして、ひとつの詩として読むと、ゲーム本編と同じ問いが別の言葉で書かれているのがわかる。「すれ違う毎日が 増えてゆくけれど」「アルバムの空白を全部 埋めてしまおう」。これは本編の「会えない時間が積もっていく」現象を、歌詞が別レイヤーで書き直している。詩として読める作りだ、というのは純愛劇としての達者さの話であって、これはぼくの知識軸の発動ではない。文章とテーマの丁寧さの話だと、そこは自分でも区別しておく。
ぼくの物差しから離れて、業界史の話としてなら一つ書ける。1998年という年に、この前年に同じLeafが『To Heart』を出して学園ラブコメの定型を一気に広め、その翌年に同じ会社が「すでに恋人がいる主人公」「会えない時間を主題にする恋愛もの」を出した。定型を一度自ら作って、自ら裏切る側に回った動きで、受容史のうえで実際に記録が残っている。歴史的意義は9でつけた。これは作者の知識的裏付けの話ではなく、この作品が業界史のなかで占めた位置の話だから、ぼくの軸の不発とは別枠で立つ数字だ。
原田宇陀児の文体——勉強の跡が読める
メインシナリオを担当した原田宇陀児という書き手について、文体の話をしたい。
調べてみると、このライターはエロゲー業界に来る前から物書きとしての修練を積んできた人で、その痕跡が文章の隅々に出ている。一人称内語の密度がね、独特なんだよ。冬弥の地の文では、書かなくてもわかる程度の情報がわざわざ言語化される。電話越しに由綺の声が少し沈んだ時に「ちょっとがっかりしてるのが、俺にはよく判った」と内語が入る。これは「書かなくてもいいこと」を書く癖なんだけど、それが結果として「冬弥の意識が由綺の表情の微細な動きを常時スキャンしている」状態を読者に伝える機能を果たしている。情報量で書くんじゃなくて、観察の濃度で書くタイプの文体だ。
もうひとつ面白いのが、衒学的な比喩の挿入だね。緒方理奈の趣味の話として、絵画の画家名が普通の会話文の中に出てくる場面がある。理奈はまず「近代だとエルンスト、古い方だとベックリンとか」と挙げる。ぼくは絵画に深くは詳しくないんだけど、それでも引っかかった。エルンストはシュルレアリスム、ベックリンは象徴主義——どちらも「無意識・象徴・幻想」を扱った画家だ。これは理奈というキャラの「アイドルとして大衆に消費される自分と、内側にある誰にも見せない自分」というテーマと、ちゃんと響き合っている。しかも面白いのは、冬弥が「よく判らない」という顔をした途端、理奈がすっと「ウォーホルとリキテンスタインにしておくわね」——誰もが知るポップアートの名前——に話を引き下げるところだ。本当に見せたい内側(象徴主義・シュルレアリスム)を隠して、消費されやすい表層(ポップアート)に切り替える。この一連の会話そのものが、理奈の主題の縮図になっている。雰囲気で固有名詞を借りているんじゃなくて、キャラの主題と接続するために選んでいる。作者、勉強してるよ。正直に言うと、本作でぼくの知識軸が本当の意味で引っかかったのは、実はこの画家名の一点だけだ。内輪参照ではない教養の痕跡がここに一本だけ通っている。この一本があるから、ぼくはこの作品を「教養の出番がまるで無い」とは言い切れない。糸は細いけれど、確かにある。
会話の書き方にも特徴がある。澤倉美咲が冬弥に「藤井君は、冬は嫌い?」「私も、好き」「冬って寒くて寂しいから、温かいものが、すごく温かく感じられるっていうか」と話す場面、語尾を整えすぎず、現実の会話のリズムをそのまま残す書き方になっている。これはやろうと思って簡単にできることじゃない。会話を「整える」のはむしろ普通で、整えないで成立させる方が技術的には難しい。文章力・描写力は8でつけた。エロゲーとしては高い部類だよ。
WHITE ALBUMという詩を読む——由綺の言葉として
ここからは、タイトル曲『WHITE ALBUM』の歌詞を文学的に読む話をしたい。歌詞はテキストだから、ぼくの領域だよ。
作詞は須谷尚子。劇中では森川由綺のキャラクターソング兼ファーストアルバムのタイトル曲として扱われる。歌詞のキーフレーズを並べてみる。「すれ違う毎日が 増えてゆくけれど」「アルバムの空白を全部 埋めてしまおう」「大切なピースの欠けた パズルだね」——この三つだけで、作品の構造がほぼ語られている。
「すれ違う毎日が 増えてゆくけれど」は本編の主題そのものだ。週単位スケジュールでプレイヤーが時間を割り当てるたびに「今週は由綺と会えなかった」が積もっていく、あの体験を一行で言語化している。「増えてゆく」という動詞の選択がいいんだよ。すれ違いは一回ごとに完結するのではなく、累積する。時間軸を持った主題として書かれている。
「アルバムの空白を全部 埋めてしまおう」のほうは、解釈の余地が広い。「アルバム」という単語は二重の意味を持っていて、表面的には音楽のアルバム——由綺が発売するファーストアルバムの空白の意——だが、もうひとつのレイヤーでは写真のアルバム——一緒に過ごせなかった日々の写真が貼られていない空白——を指している。「会えなかった日々」を「埋めよう」という意志は、過去を取り戻したいという願望と、未来をこれから埋めていこうという意志の、二重表現になっている。
そして「大切なピースの欠けた パズルだね」。これがいちばん文学的に巧みな比喩だと思う。「パズル」というメタファーは「全体像が決まっていて、ピースを埋めれば完成する」という前提を持っている。一方で「欠けたまま」という認識は、完成しないかもしれない不安と表裏一体だ。「いつか埋まる」と「永遠に欠けている」の両方が、この一行に同居している。これは現代詩の手法だよ。ひとつの比喩の中に対立する二つの感情を畳み込む。歌の歌詞でここまで書けるのは、書き手として相当に意識的だ。
本編との接続もちゃんと取れている。由綺は劇中で「特別可愛いとかじゃないから、スタジオとかにいないと誰だか判らないんじゃない?」と自虐する素朴な少女だ。その彼女が、自分の歌として歌うのが、こういう詩なんだよ。素朴な少女と、繊細な詩。ギャップがあるからこそ、由綺というキャラに奥行きが出る。彼女自身は詩の言葉で語れないが、彼女のために書かれた詩は彼女の心の内側を代弁してくれる——という構造が、歌詞と本編の関係になっている。テーマ・メッセージ性は8でつけた。歌詞を文学として読み込んだ上での評価だ。
弱点——冬弥という主人公と、最初の数時間
良かったところを書いた以上、引っかかった部分も誠実に書いておく。
まず主人公・藤井冬弥について。受動的で、煮え切らない。約束を断る時に自分の嘘の下手さを自分で告白する。由綺の前で取り乱す場面では他人から「感情だけで走るみたいなひ弱な男」と一蹴される。どのルートでも能動的な選択を避け、ヒロインの側に決断を渡してしまう。これは文学的に読むと「視点人物を空洞にして、ヒロイン側に物語の動力を持たせる」という設計意図として理解できる。栞さんがこの作品の構造分析でも近いことを書いていたね。ぼくも構造としては理解できる。
ただ、構造として理解できることと、体験として楽しめることは別なんだよね。一人称ADVで主人公の人格を空にすると、プレイヤー側が冬弥に乗って物語に入りづらくなる。視点人物に意志がないと、感情移入の足場が消える。「設計だ」と気づくまでに脱落する人が出るのは仕方ない。ぼく自身、最初の数時間は冬弥のグダグダに付き合うのが少しきつかった。主人公の造形は5でつけた。設計意図を理解した上で、体験としては5、という意味の数字だ。
もうひとつ、序盤の負荷。週単位スケジュール選択型は、慣れるまで「自分が今何をしているのか」がつかみにくい。「いろいろな行動をします」と選ぶと、誰に会えるか、約束がどう発生するかが、画面上からは読み取れない。同じ場所に行っても会えたり会えなかったりする運要素が混ざる。「すれ違いを実装する」というテーマからして、ヒントを置きすぎないのは正しい選択ではあるんだけど、もう少しだけプレイヤーに見える手がかりを置いてくれてもよかったかなと思う。テンポ・緩急は6。
勿体ないと思うのは、この弱点は設計の代償として発生していて、設計の正しさと矛盾しないものなんだよね。だから「直せ」とは言えないし、直したらこの作品ではなくなる。それを承知の上で、体験負荷としては存在している、という形で記録しておく。
7.0——ぼくの軸が働く題材ではなかった、と正直に
点数の根拠をまとめて締める。前に7.5と書いたことがあるんだけど、あれは切り上げだったと思う。今回は7.0に直す。理由を順に書く。
まず前提として、ぼくが普段使う知識——歴史考証・科学的合理性・民俗学・宗教モチーフ——の出番は、本作ではほぼなかった。これは何度でも正直に書いておく。ぼくの評価軸の核は「設定が現実の知識や文化とどれだけ噛み合っているか」「世界の奥行きに本物の裏付けがあるか」なんだけど、純愛の恋愛劇であるこの作品には、その軸が噛む相手がほとんど無い。ぼくの軸は、本作ではほぼ不発だ。ここを誤魔化して高い点をつけるのは、自分の物差しに対して誠実じゃない。
誤解のないように言うと、これはジャンルへの減点ではない。「純愛だから下げる」んじゃない。純愛の恋愛劇として本作は達者だよ。原田宇陀児の文体には勉強の跡があって、情報量ではなく観察密度で書く一人称内語、整えない会話文の自然さは、エロゲーだけ読んでエロゲーを書いている人の文章じゃない。文章力・描写力は8でつけたし、歌詞を詩として読める作りも含めて、テーマの通し方も丁寧だ。ただ、それは文章とテーマの達者さの話であって、ぼくの知識軸が働いた結果ではない。そこは自分の中で切り分ける。だから独自性のような、ぼくが「知識を新しい角度で組み替えているか」で見る指標は、この純愛劇には高くは当てられない。6に下げた。
そのうえで、6ではなく7.0にした理由が一つある。会話に紛れて出てくるシュルレアリスム画家の名前が、理奈というキャラの主題とちゃんと接続していた、あの一点だ。あれは雰囲気で借りた固有名詞ではなく、内輪参照ではない教養の痕跡が細いけれど一本通っている。ぼくのルーブリックで「教養の痕跡がある、内輪参照ではない」は7に当たる。糸は一本だけだが、確かにある。だから6ではなく7.0。この一本の糸ぶんを、正直に足した数字だ。
業界史の話としてなら、1998年に定型を一度自ら作って自ら裏切る側に回ったLeafの動き、その試みが受容史に記録として残った事実がある。歴史的意義は9でつけた。これは作者の知識的裏付けではなく、作品が業界史で占めた位置の話なので、ぼくの軸の不発とは別枠で立つ。
弱点も残っている。冬弥の弱さは設計意図として理解できるが体験負荷は残るし、序盤のシステムは読み取りにくい。それらを含めて総合7.0。純愛劇として達者で、画家名の一本の糸は確かに光る。でも、ぼくの知識軸が働く作品ではなかった。だから7.0が正直だ。詩を読むのが好きな人、文体の細部を味わうのが好きな人、1998年のエロゲー史に関心がある人には、それでも読んでみてほしい一作ではある。
