触手陵辱ADVの皮を被って、この作品は「一切は赦されている」という虚無の思想を撒いていた。それに真正面から「守ること」で抗う女がいた。僕が見ていたのは、その一点だよ。
敵の錬金術師シンは、ニーチェとクロウリーを混ぜたような虚無を語る。「世界は倦怠と虚無に満ちている。そこに意味などない」。人をゆらぎという怪物に堕とす薬には、クロウリーの法「汝の為すべきを為せ。一切は赦されている」が添えられている。そこに、13年間怪物の腹の中で凌辱を受け続けたメグが、「破局を人の力で避けて通って何が悪いの、死に抗うのが生だわ」と立ちはだかる。虚無と、それでも生を守る意志。この対立を核に据えていた点は、本質から逃げていない。ただ、その核を明るいハーレムとコメディで薄めてしまった。だから満点にはならない。7.4。
スコア詳細
触手陵辱ADVに、本物の虚無はあるか
変身ヒロインが触手に嬲られる。それだけの作品だと思っていた。でも、思想が仕込まれていた。
変身少女モノの陵辱ADVというジャンルに、思想を期待する人間は少ないと思うよ。触手と薬と絶叫、その表層を消費するために作られたものが大半だろうね。だから僕もそこまでは期待していなかった。ところが、御園町という舞台に薬をばら撒いている連中の口から、妙な言葉が漏れ始める。「これこそ本当の生き方だ、狼の生だ。恐れる事はない、一切は許されている」。着ぐるみを着た男がそう言いながら、人をゆらぎという触手の怪物に変える薬を配って回っている。この「一切は赦されている」というのは、二十世紀の魔術師クロウリーが掲げた法そのままだよ。触手ゲームがそれを引いてくる。……この時点で、僕はこの作品を「ただの陵辱ADV」の棚から少しだけずらして見ることにしたんだ。
そして、その思想の源にいるのが、黒コートの錬金術師シン。二浪の予備校生・岡島秋俊が最初に街ですれ違ったとき、真夏に黒いコートを羽織った異物として描かれる男だ。彼はメグという女の元恋人で、かつて向こう側という異世界で大量殺戮を犯した張本人でもある。この男が作品の底に据えられていたから、僕はこの作品を最後まで見る気になった。
シンの虚無——「倦怠と虚無に満ちている」という宣告
この作品の闇は、触手ではなく、シンが撒いている言葉の側にある。
シンの思想は徹頭徹尾、虚無だよ。「世界は色褪せて、倦怠と虚無に満ちている。そこに意味などない」。世界を維持しようとする恒久維持局という戦士の組織を、彼は「恒久、か……下らんな」と切り捨てる。生きること、守ること、続けること、そのすべてを「暇潰し」と呼ぶ。「どのみち、万事が万事死ぬまでの暇潰しだ」。ニーチェの倦怠に、クロウリーの「一切は赦されている」を重ねて、人間を怪物へ堕とすための燃料にしている。思想を武器にする敵、というのは僕の好物なんだよね。
ただ、正直に言うと、シンの虚無は「撒いている」段階で止まっている。彼がなぜそこに至ったのか、その虚無の底までは掘られていない。過去に大量殺戮を犯した、元恋人のメグを肉奴隷に仕込んだと公言する、そこまでは分かる。でも、彼自身の内面の崩壊のプロセスは描かれない。思想が結論として置かれているだけで、そこへ落ちていく過程がない。だから深淵を覗いたとまでは言えないんだ。手前で止まっている。……僕としては、もう一歩、シンの中の暗がりまで踏み込んでほしかったと思うよ。
メグ——13年、怪物の腹の中で。それでも「守ること」
この作品で本当に本質に触れているのは、シンではなく、シンに抗う側の女だ。
加賀野メグ。秋俊のアパートに越してきた、底抜けに明るい世話好きの管理人として登場する女性だ。毎食差し入れを持ってきて、年下の秋俊を「秋俊ちゃん」と呼んで可愛がる。その正体が、向こう側で最強と謳われた戦士「鬼神/アンチェイン」だと分かるあたりから、この作品の重さが変わってくる。彼女の過去がえげつない。16年前、那火根の地底で育った怪物を討つために、彼女はユリ組という10名の戦士とともに出撃した。9名が全滅し、メグ独りが封印の楔になった。そして13年間、怪物の腹の中で凌辱を受け続けたんだ。3年前、秋俊とアイが怪物を消してようやく解放される、その日まで。
ここが凄いのは、その13年を経てなお、メグの信念が虚無に落ちていないことだよ。戦場で仲間を看取りながら彼女が言う、「大切なのは守ること……殺すことじゃないの」。そしてシンの虚無に真正面から返す、「破局を人の力で避けて通って何が悪いの、死に抗うのが生だわ」。シンの「意味などない」に対して、メグの「死に抗うのが生」。この二人が元恋人同士だという構図が効いている。かつて同じ地平にいた二人が、虚無と、虚無への抵抗に分かれた。作品のテーマがこの一組の関係に収束している。ここは本質に触れていると思うよ。
だからこそ、メグが壊れかける場面が重い。少年の姿をしたゆらぎ・瑠璃男に責められ、彼女は「いっそあのまま、あそこで死ねたら良かったのに」と漏らす。13年の凌辱を、現世でもう一度なぞらされる。バッドの分岐では、その瑠璃男に「奴隷になる事を誓う」と言わされ、鬼神の誇りが過去のトラウマを梃子に解体されて、性奴隷に堕ちていく。逆にハッピーの分岐では、その「死にたい」を秋俊が引き留めて、彼女を生の側に連れ戻す。同じ13年を背負った女が、堕ちるか、踏みとどまるか。その分岐が言葉責めの内容そのものに乗っている点は、この作品が陵辱を物語と接続できていた証拠だと思う。ただの触手の消費ではない。ここには「なぜそうなるか」の文脈がある。
記憶消去とバッドエンド——喪失を身体に刻む構図
秋俊が3年間抱えていた「大切な何か」の正体は、消された恋人だった。
主人公・秋俊が物語の最初から抱えている、説明のつかない喪失感。「何か大切なことを忘れているのではないか」という3年越しのモヤモヤ。その正体が、タイトルロールのアイだったという回収は綺麗だよ。3年前のあの夜、秋俊とともに那火根の怪物を消したアイは、別れ際に「秋俊……大好きだよ」と告げてから、彼の記憶をすべて消して去った。「私。忘れない。すごく、すごく、好きだった人がいたことを」。忘れるのは自分ではなく相手、という非対称。喪失を相手に押しつけて自分だけが覚えている、というのは、けっこう酷な愛の形だと思うよ。秋俊が首から下げ続けていた籠球という碧色の玉が、消えた記憶の唯一の残滓だった、という一点物のアイテムの置き方も悪くない。
そして、この作品は喪失を思想で語るだけでなく、身体に刻む。アイのバッドでは、リンが薬で「出産」した少女形のゆらぎ・マユに捕らわれ、何日も調教されて敵の「人形」へと貶められる。3年越しに結ばれるべき相手の元から引き剥がされて、玩具にされる。ハッピーで得られるはずだった「つらかったよ、3年は」という涙の成就の、完全な裏返しだ。救済と陥落を同じキャラの左右に並べて、どちらもきっちり描く。この非対称の徹底ぶりは、軽薄な作品にはできないことだよ。喪失というテーマが、合意の朝と、人形化の監禁の、両極に引き裂かれて置かれている。ここは考察の余白がある。
弱点——ハーレムの明るさが、闇を薄める
ここまで褒めておいて、この作品には致命的に軽薄な部分がある。
コメディの比重が、僕には高すぎたね。予備校仲間の望月紫との軽口、リンとアイが大食いやじゃんけんで張り合うくだり、ああいうスラップスティックな尺が、虚無と救済という核の周りに大量に置かれている。笑いを全否定する気はないんだ。リンが自分で頼んだ青汁を前に「飲めるか――――ッ」と逆上するあたりは、軽薄ではあるけど、悪くはないかなと思ってしまった。技術的にテンポは悪くない。でも、シンの「意味などない」とメグの「死に抗うのが生」を扱っている作品の中に置くと、方向感が散漫になる。虚無を撒いた同じ画面で、大食い対決の勝ち負けを競っている。この温度差が、闇を薄めてしまうんだよね。
そして、最大の減点は真エンドの明るさだ。全ルートを踏破した先にあるのが、前期試験を終えた秋俊が、アイ、リン、紫、美景、メグと賑やかに暮らす朝のハーレム日常。虚無に抗ったメグも、消された記憶を取り戻したアイも、全員が食卓を囲んで笑っている。……悪い着地だとは言わないよ。救済の物語として筋は通っている。でも、あれだけの闇を掘っておいて、最後に全部を「みんなで明るく」で回収してしまうのは、僕には物足りない。13年の腹の中も、記憶を消した非対称の愛も、賑やかな朝に溶けて薄まる。テキストの密度も、触手と擬音の反復が嵩を占める場面が多くて、ヒロインの内面まで踏み込めていないケースがある。とくにゆらぎ側の陵辱には、メグやアイのような「なぜそうなるか」の文脈が薄く、ただの触手の暴力で終わっている個体もいた。そこは深みに貢献していない。
7.4——深淵の手前で止まった、それでも闇はある
虚無を撒き、その虚無に「守ること」で抗う。この一組を据えた勇気は、本物だと思う。
触手陵辱ADVという表層の下に、「一切は赦されている」という虚無と、13年を腹の中で耐えてなお「死に抗うのが生」と言い切る意志を、元恋人同士の対立として据える。この核を持っている時点で、この作品は軽薄な棚には置けないんだよ。本質から逃げていない部分が、確かにある。ただ、シンの虚無は結論のまま止まり、掘り下げの手前で足を止めた。ハーレムの明るさとコメディの尺が、せっかくの闇を最後に薄めてしまった。深淵を覗いた、とは言えない。覗こうとして、途中で明るい方へ逃げた作品だ。……まあ、そういうことだよ。それでも、僕はこの作品が撒いた虚無と、それに抗ったメグの一言を、しばらく覚えていると思う。7.4。
