鬼畜は表層。その下に「自分で自分を罰している男」の構造が埋まっている。
地下室で女を壊すだけの話だと思って読むと、何も見えないと思うよ。この作品の本当の中心は、犯人捜しの果てに「犯人は自分だった」と知る男の自己処罰だ。陵辱は快楽ではなく、雛子を殺した記憶から逃げるための代償行為として組み上がっている。そこには、ちゃんと闇がある。ただ、おまけエンドの称号の軽薄さが、その闇に薄く泥を塗っているのも事実だね。
スコア詳細
鬼畜の山の底に埋まった悲劇を、覗きに来た
2001年、たっちーというブランドの第一作として出た尋問陵辱アドベンチャー。スタッフ自身が「ストーリーがメイン」「愛のかけらもないHシーンばかりを書いた」と言い切っている、ちょっと珍しい立ち位置の作品だよ。
話の骨格はこうだ。神条真人という若い理事長が、一年前に殺された妹・雛子の真相を追って、赴任先の学院の女性たちを次々と地下室に連れ込み「尋問」と称して壊していく。従妹の七瀬、双子の華奈恵と桂、空手部の優子、転入生の沙緒里、警備員の美織、補佐教師の養子。協力者は旧友の和名。プロローグだけ妙に毛色が違って、孝介という少年が壁のなかのAIに「カスミ」と名前を与える、幻想的な入れ子から始まる。
僕がこれを手に取ったのは、「愛のかけらもない」と作り手が宣言した陵辱の山の下に、何か別のものが埋まっているんじゃないかと思ったからだ。ただの暴力の羅列なら、序盤で切る。でも、復讐者が自分を「鬼でも悪魔でもいい」と規定する独白が早い段階で挿し込まれていて、これは表層だけの作品じゃないなと感じた。そこから先は、闇の質を見極めるつもりで読んだよ。
この作品の闇は「自分で自分を罰する男」にある
真相を知ってから読み返すと、地下室の責めが全部ちがって見える。これは女を壊す話じゃない。自分を壊し続けている男の話だ。
核心はここだよ。剣道大会の日、職員のミスで真人と雛子の薬が取り違えられ、そこへ沙緒里から渡されたドリンクが重なって、二種類の薬が真人の理性のタガを外した。凶暴化した真人は、自分の手で雛子を殺した。それを目撃した七瀬が、強盗の偽装で兄を庇った。真人本人は記憶を抑圧したまま、犯人を探し続けている。つまり彼は、自分が犯人だと知らないまま、自分への復讐をやっているんだ。
「人間じゃない? おおいに結構だ。僕は雛子を失ったときから、自分が人間だなどとは思っていない。鬼だろうが悪魔だろうが、何にだってなってやる」。この独白は沙緒里への責めの最中に置かれている。普通なら加害を正当化するための言葉に読める。でも真相を踏まえると、これは加害ではなく、自罰の宣言なんだよね。彼は人間でいたくない。人間のままだと、妹を殺した記憶に押し潰されるから。だから鬼になる。陵辱の一発ごとが、思い出さないための逃避なんだ。
この構造が見えた瞬間、僕はこの作品が本質から逃げていないと思った。普通の陵辱ものなら、加害者の快楽で完結させて終わる。でもこれは、加害の根に「触れられない喪失」を埋めた。表向きは最も軽薄に見えるジャンルで、いちばん重い問いを抱えている。……これは、分かっている人間には届く構造だと思うよ。
楽譜という装置と、七瀬の孤独
記憶を呼び戻す鍵が「三人で作った曲」だというのが、この作品でいちばん詩的な部分だ。
真人が封じた記憶を解くトリガーは、楽譜だった。真人・七瀬・雛子の三人で作った曲。七瀬がそれを部屋に残し続けたのは、処分できなかったからだ。「お兄ちゃんと私と……雛子ちゃんの三人で作った曲だよ」「隠していたのはお兄ちゃんが嫌な思いをするから」。彼女は真相を一人で背負い、兄を守るために稚拙な偽装までして、それでも思い出の曲だけは捨てられなかった。守りたい気持ちと、覚えていたい気持ちが、同じ一枚の譜面のなかで矛盾している。ここに、僕は深みを感じる。
七瀬の孤独は、誰にも気づかれない種類のものだ。彼女は加害者の妹分として平然と日常を演じながら、兄が地下で何をしているかも察している。その上で「お兄ちゃんがいらないって言うまで……ずっといる」と言う。この無条件の献身は、純愛とは少し違う。罪を共有してしまった者の、引き返せない場所からの献身だ。タイトルの「最後に奏でる狂想曲」は、たぶんこの楽譜のことを指している。壊れていく旋律を、それでも最後まで鳴らすという意味で。
……まあ、この詩的なモチーフを、作品が最後まで丁寧に磨ききったかというと、そこは疑問が残るけどね。楽譜の扱いはもう少し物語の隅々まで響かせられたはずだと思うよ。
和名の贖罪が、構造を二重にしている
真人を救う側の和名が、実は元凶の一族だった。この捻れが、作品の闇をもう一段深くしている。
和名は真人の唯一の親友で、「俺はお前を裏切らない」と誓う共犯者だ。ところが真相では、雛子と真人を被験者に追い込んだ立川製薬は、和名の父の会社だった。「守山が取引していた会社は立川製薬……俺の親父の会社だ」。つまり彼は、親友の人生を壊した加害者の息子でありながら、その親友の復讐を手伝っている。母の死でようやく父に反抗できるようになり、黒幕の守山教頭を「俺が始末した」と告白し、最後は「お前が生きているかぎりずっとお前を守る。どんな罪を重ねてでも……それが……俺の贖罪だ」と引き受ける。
真人が自分を罰する話の隣で、和名もまた自分を罰している。二人の自罰が並走する構造だ。罪を犯した者と、罪を作った家系の者が、互いの罪を抱えたまま地下室にいる。この設計は悪くないと思うよ。陵辱の絵面の裏に、贖罪の二重奏が走っているわけだから。
Hシーンは「業が剥き出しになる場面」として機能している
この作品の責めは、なぜそうなるかの文脈を持っている。だから、ただの暴力にはなっていない。
僕にとってHシーンは、人間の業が剥き出しになる場面だ。その基準で言うと、本作の陵辱は意味を持っている。七瀬を女子トイレで便器に押し付けながら「これが最後だぞ、七瀬。話すんだ。誰が雛子を殺した?」と問うシーン。最も近い肉親に対して、最も汚い行為で真実を求める。この倒錯は、真人が答えに最も近い場所で答えから逃げていることの象徴だ。皮肉なことに、真実を一番知っているのは目の前の七瀬で、その七瀬を壊しても真人は何も得られない。整合性という点で、この一場面は本編のテーマと深く接続している。
優子への責めも文脈がある。「お前らが雛子にやった事を思い出せっ! 雛子の分まで痛みに狂いやがれっ!!」。これは完全な誤認に基づく八つ当たりだ。優子は雛子が一方的に憧れていただけの先輩で、何も関係がない。真人は無関係の相手を雛子の仇に仕立てて殴っている。後に和名が「彼女は全くの無関係だ」と明かすことで、この責めの全部が空振りだったと分かる。喪失が人を、無関係な誰かへの加害に駆り立てる。この虚しさを描いた点で、優子のシーンは本質に触れていると思うよ。
ただ、率直に言うと、責めそのものの実用性を語るつもりはないし、僕にはそういう見方はできない。糞尿や詰め物や火責めといった責めのバリエーションの豊富さは、たぶんこの作品の売りなんだろうけど、僕にとっては多すぎて、テーマとの接続が薄い責めが半分以上を占めていたのが正直なところだ。物語に必要な責めと、ただ並べただけの責めの境目が、もう少しはっきりしていれば、と思う。
惜しい場所——おまけエンドの軽薄さと、世界の薄さ
この作品の闇を薄めているものが、二つある。一つは称号エンドの軽薄さ、もう一つは学院という世界の奥行きの無さだ。
まず称号エンド。プレイ傾向に応じて「深度肛門」「後方不敗」「スカトロンガー」みたいなふざけた称号が付与される、おまけ的なバッドエンドが大量にある。スタッフ自身が「ある意味バッドエンド的なもの」と言っている通り、これは本筋じゃない。でも、せっかく自己処罰という重い構造を積み上げておきながら、出口の一つがこういう駄洒落の羅列だというのは、闇の純度を下げている。軽薄ではあるけど……まあ、おまけと割り切れば悪くはないのかもしれない。ただ、僕はここで少し冷めたよ。本質に触れた作品が、自分でその本質を茶化しているように見えたから。
もう一つは世界だ。聖フォード女学院という舞台は、正直、奥行きが薄い。生徒たちは尋問対象として配置されているだけで、学院そのものの歴史や文化や、主人公の見えない場所での生活感が立ち上がってこない。世界が真人の復讐のために用意された箱に見えてしまう。考察の余白という意味でも、薬の取り違えと製薬会社の取引という真相が全部きっちり説明されてしまうので、読み終わった後に残る謎が少ない。プロローグのカスミと孝介の入れ子だけが、唯一「これは何だったのか」と引っかかる余白として残るんだけどね。
真相エンドの着地
最後の病院のシーンは、この作品が選んだ誠実な結末だと思うよ。
真人は楽譜を演奏して記憶を取り戻し、「そうだ……そうだったんだ……。雛子を殺した犯人……。僕だったんだ」と崩れる。病院で目を覚ました彼は、海外から戻った姉・薙に「雛子を……殺したんだ。……僕は……その事を知っていた。忘れていたけど……思い出したんだ」と告白する。薙は責めず、「何も考えなくてもいいわ。ゆっくり休むことよ」と受け止める。そして真人の隣に、雛子の幻覚が現れて「……ほら、帰ろう? お兄ちゃん」と袖を引く。
救いのようでいて、救いではない。雛子は許しに来たのではなく、迎えに来たのだから。真人は罪を自覚したまま、妹の幻覚に手を引かれて意識の向こうへ消えていく。逃げ続けた男が、最後に逃げ場のない真実に追いつかれて、それでも妹の声でしか帰る場所を持てない。この読後感は、軽薄なものではないよ。希望で締めなかった。鬼畜という看板の作品が、最後にこういう静かな崩壊を選んだことを、僕は悪くはないと思う。
7.0——闇はある。ただ、自分でそれを茶化した
表層の鬼畜だけ見れば消費物。でも構造を見れば、自己処罰という確かな闇がある。その落差を評価したい。
この作品は、分かっている人間にしか届かない種類の闇を持っていると思うよ。陵辱の山の下に、犯人が自分だったと知らないまま自分を罰し続ける男の話を埋めた。和名の贖罪、七瀬の孤独、楽譜という記憶の装置。どれも本質から逃げていない。喪失が人を鬼に変える過程を、これだけ徹底して描いた作品は珍しい。テーマと雰囲気と着地、この三点は確かに本物だ。
引いた理由は二つ。称号エンドの軽薄さが、せっかく積み上げた闇を自分で薄めていること。そして学院という世界に奥行きがなく、考察の余白がほとんど残らないこと。この二つがなければ、もう一段上の点を付けていた。……まあ、看板に偽りありの、表層と深層が逆転した一本だね。地下室の絵面で切ってしまう人が多いだろうけど、それはこの作品の半分しか見ていないと思うよ。
